母の言いつけ通り、部屋で刺繍に勤しんでいたは、廊下の騒々しさに気がつくのが遅れてしまった。は怪訝に思って手を止め、顔をあげる。それとほぼ同時に、慌ただしく扉が叩かれたかと思えば、返事をする間もなく開け放たれる。
転がるように室内に入ってきた侍女の顔は蒼白だった。
はそれだけで、ことの重大さを理解する。さっと針と糸を置いて、立ち上がった。
「どうしたの?」
「た、た、っ大変でございますお嬢様! リーガン公爵家の、ご、ご嫡男様が」
息を切らせる侍女の言葉はつかえていたが、はすぐに察することができた。「わかったわ。まずは水を飲んで、落ち着いてちょうだい」と、微笑んで背をさすってやる。
レスター諸侯同盟の盟主を務めるのは、リーガン公爵家。
その嫡男──クロード=フォン=リーガンの存在が公になったのは、つい最近のことである。リーガン公には跡継ぎがいないとされてきたが、爵位継承者がひょっこり現れたことは、同盟に衝撃をもたらした。
そして、クロードがの婚約者になったのは、もっと最近のことである。顔を見たことすらない。けれど、貴族の娘としては何ら不思議なことではなかった。
「不躾な人ね」
訪ねるのならば、事前に一報をくれるべきだ。おかげで屋敷は大混乱である。
「! なにをしているの、早く着替えなさい」
普段は早歩きさえもしない母が、鬼のような形相で駆けてくる。いつも優雅にはためかせる裾が捲れて、足首が覗いていた。
が思うよりずっと、緊急事態のようだ。
侍女に囲まれ、ぎゅうぎゅうと窮屈な補正下着に胴を絞られ、華美な礼服を着せられる。社交界に出るときよりも丁寧に化粧を施されるわ、髪を弄くり回されるわで、支度が終わる頃にはは疲れ切っていた。クロードに会う前から、うんざりしてしまう。
それを見透かされて「しっかりなさい。我が家の一大事、あなた次第で行く末が決まるのよ」と、母に叱責される。は小さくため息を吐いて、背筋を伸ばした。
客間の座り心地のよい椅子には腰掛けず、調度品を眺めるその背からは、手持ち無沙汰だったことが伺えた。
支度に時間をかけすぎてしまっただろうか。ちらりと見えた卓上の紅茶は、手をつけていないのかすこしも減っておらず、冷め切っているようだった。
「クロード様、お待たせして申し訳ありません」
室内には、ひとりの姿しかなかった。顔すらも知らないが、彼がクロードで間違いなさそうだと判断し、はそう言って腰を折った。下げた頭に視線を感じる。
おもむろに顔をあげると、翡翠の瞳がを見ていた。
フォドラでは、珍しい色ではない。けれど何故だか、その瞳には底知れないものを感じて、は視線から逃れるように目を伏せた。伽羅色の肌に、癖のある焦げ茶色の髪は、異邦を思わせる。
「娘のですわ」
「お初にお目にかかります。=フォン=と申します」
仮にも婚約者だというのに、妙な挨拶だなと思った。
一言二言、クロードと言葉を交わした母が、あっという間に退出して二人きりになる。この状況に困惑し、は扉の前で立ち尽くす。
「突然で悪いな。こっちも色々とバタバタして、時間が捻出できなくてさ」
「いえ、ご足労いただきありがとうございます」
クロードが椅子に腰を下ろし、を手招きする。貴族の間ではほとんど見ることのない、気安い仕草だった。それを自分に向けられたのが何だか不思議に感じた。
は招かれるまま、クロードの正面に座る。
「聞いてた通りの美人だな」
の顔をしげしげと眺めながら、クロードが感心したふうに呟く。
過度に装飾された美辞麗句なら聞き慣れていたが、こんなに直接的な言い方をしてくる人は初めてだった。は反応に困って、視線を落とす。
「……誰からそんなことをお聞きになったのです?」
「誰だと思う?」
「意地悪をおっしゃるのですね。残念ながら、わたしには見当もつきません」
はは、とクロードが笑う。口元は笑みの形をしていたが、瞳はまったく柔らかみを帯びることがなく探るようにを見ていた。
「ところで、クロード様は」
「おっと」
の言葉を遮ったクロードが、目を細める。
「今日は、俺があんたに質問させてもらう。そのために設けた機会だ」
忙しい合間を縫っての訪問の理由を告げて、クロードが口角をあげる。
この問答で何か間違いを犯せば、母の言う通り家の今後は真っ暗かもしれない。は膝の上で、ぎゅっと両手を握りしめる。
不躾な人、とは内心で吐き捨てる。あんた、などと呼ばれたのも初めてだ。
「わかりました。期待に添えるかどうか不安ではありますが、何でもおっしゃってください」
にこ、とはやさしげに微笑む。
馬鹿馬鹿しい。母には悪いが、はリーガン公爵家などどうだっていい。目の前のクロード=フォン=リーガンとて、同年代の異性に過ぎない。
は微笑みを絶やさぬまま、続ける。
「ではクロード様、次回はわたしにもあなたのことをお教えくださいね」
クロードの表情がわずかに崩れたような気がした。
クロードの乗った馬車が遠ざかっていくのを窓越しに眺めながら、は重すぎる耳飾りを乱暴に外す。一刻も早くこの息苦しさから解放されたくて「早く脱がせて」と、侍女を呼びつける。
自身の婚姻に興味などなかったが、あの婚約者は食えないにもほどがある。
次の大樹の節にはガルグ=マク大修道院の士官学校に行くとのことで、クロードに会う機会はそうそう訪れないだろう。次回は、などと言ったものの二度と来なくたって構わないくらいだ。そのくらいの疲労感がにはある。
「初めてお目にしましたが、素敵な方でしたね」
「え?」
「お嬢様はそう思われませんでしたか? 使用人にもやさしく笑いかけてくださって、気さくに声もかけてくださって、高慢な感じがちっともなかったんですもの」
はクロードの気安い所作と、飾り気のない言葉を思い起こす。これまでその存在を秘匿とされてきた嫡男は、とはまったく異なる環境で育ってきたのかもしれない。
胴の窮屈さから解放されて漏れた吐息は、ため息にも似ていた。
士官学校に入学してから一年は顔を合わせることもない、と思っていたのに、円卓会議にリーガン公の代理で出席するためにクロードがこちらに戻ってきているらしい。ついでに寄るよ、と連絡があったのは、もう間もなくクロードが到着するという頃である。
以前のように侍女に囲まれながら、は眉根に皺を刻んだ。
「お嬢様! そんな顔をなさってはいけません」
頬に紅をはたく侍女がぴしゃりと嗜める。「はいはい」と、おざなりな返事をして、は表情筋を緩めた。
の準備が整う頃には、すでにクロードは到着していて客間に通されていた。雨が打ちつける窓を眺めるクロードの姿を見つけ、は丁寧に腰を折った。
ちら、と卓上の茶杯を確認するが、やはり中身は減っていない。
「荒天の中のご足労、感謝いたします。クロード様、お身体は冷えていませんか?」
クロードが振り向く。揺れた三つ編みの先から、雨滴が落ちた。
はクロードの格好を見て、瞳を瞬く。士官学校の制服を身に纏っている。茶を飲む暇もなさそうだ、と思いながらは侍女を呼びつけた。
冷めた紅茶を下げさせると、自らが茶器を手にした。侍女ほど手慣れてはいないが、作法は心得ている。窓際に立ったままのクロードの瞳が、じっとの様子を観察しているのがわかった。
ふわ、とカミツレの香りが漂う。
「腰を落ち着ける暇もないのですか?」
「いや、まさか。あんた手ずから淹れてもらった茶を、飲まないわけにはいかないね」
随分と勿体ぶった言い方をするので、は小さく肩を竦めた。
伽羅色の手が紅茶に伸びる。茶杯を持ち上げながらも、口をつける様子がない。は不思議に思いながら、自分の杯へと指をかけた。カミツレの花茶は香り高く、の気に入りの茶葉だ。火傷をしないように気をつけながら、一口含む。
視線を感じて、はクロードを見やる。
「……もしかして、紅茶はお嫌いですか?」
いつも卓上の紅茶が減らなかったのは、そのせいかもしれない。
クロードがなんとも言えない表情をして「いいや」と、首を横に振った。
「少しばかり、人より疑り深いだけさ」
クロードが持ったままの茶杯に口をつけて、傾ける。喉仏が上下する様を、は首を捻りながら見つめた。
いったい、何を疑う必要が──そう考えて、ははっと小さく息を呑んだ。
が紅茶を淹れるところを、クロードはつぶさに見ていた。が口をつけてから、クロードは口をつけた。毒を盛られていないか、確認していたのか。
「クロード様、それはいくら何でも……」
「悪いね。俺は猜疑心の塊なんだ」
何でもないことのように言って、クロードが紅茶を置いた。「美味いよ」と、クロードが笑むが、取ってつけたようにしか聞こえなかった。
は顔をしかめそうになるが、侍女の言葉を思い出して堪える。
せっかく時間をかけて綺麗にしてもらったのだから、台無しにしてしまっては申し訳ない。
「わざわざ、顔を出さなくったって構いませんのに。円卓会議にご出席なされて、お疲れでしょう」
「婚約者殿はつれないねぇ。嬉しい、って嘘でも言ってくれないのか?」
「まあクロード様、もちろん嬉しいに決まっています」
はぱっと花が咲くように笑った。「だって、今度はわたしの番ですもの」と、続けるとクロードが片眉を器用に跳ねあげた。
「あなたが根掘り葉掘り聞いたように、何でも聞いてもよろしくて?」
「俺にそんなに興味を持ってくれているとは嬉しいね」
ふ、とクロードが小さく笑う。
は笑みを湛えたまま、クロードを見つめた。根掘り葉掘り聞いてやりたいのは山々だが、疲労を隠しきれない顔を見ているとその気が失せてしまう。
「では、その興味が続くように、質問は次の機会に致しましょうか」
「……気が変わったのか?」
不可解そうにクロードが眉をひそめる。はふふ、と笑みをこぼしながら、のんびりと紅茶を飲む。
「そんなところです。クロード様、お身体は温まりました? ひどい雨ですから、濡れないようにお気をつけなさって。新しい雨除けの外套を用意させます」
立ち上がったの手首を、色の異なる手が掴む。異なるのは肌の色だけではない。の手よりもずっと大きく、分厚く硬い手のひらをしている。この手が持つのは、刺繍糸を通した針ではない。
「だったらまた、俺に聞かせてくれ。あんたは──いや、はこの婚約が嫌じゃないのか」
クロードがの名を呼ぶのは初めてだった。はぱちぱちと瞳を瞬く。
「婚姻に憧れを抱いたことはないですし、結婚相手を選べると思ったこともないので、嫌とも何とも思いません。つまらない答えで申し訳ありません」
でも、とは続ける。
クロードの顔からは笑みが消えていて、翡翠の瞳は睨むような力強さでを見つめている。
「クロード様に興味があるのはほんとうです。そうですね、あなたの今のお顔を見ていたら、心配になるくらいには」
クロードの頬に指を滑らせる。「だから、今度はお元気なときにお話しさせてください」と、は笑いかけた。クロードが吹き出して、緊張感すら覚えた表情が崩れる。
クロードが降参と言わんばかりに両手をあげた。
「あんたには負けたよ。今日は大人しく帰るとするか」
「そうなさってください。お忙しいクロード様と違って、わたしはいつでもここでお待ちしていますから」
クロードの馬車を窓越しに見送ってから、好きな茶葉くらい聞いておけばよかったとは思う。紅茶を片付けようとして、ふと小さな紙切れに気づいた。走り書きされた文字に、は目を丸くする。
好きな茶葉だった、ご馳走様。
「いつの間に……もう、口でおっしゃってくださればいいのに」
呆れたふうに呟くの顔には、笑みが浮かんでいた。