(紅花の章)
(死の描写あります)







































「はー……もー、最悪……」

 ヒルダの口元は、紅ではなく己の血で彩られていた。到底似つかわしくない厳つい戦斧をようやっと手放して、膝をつく。長い桃色の髪が地に広がって、血溜まりと混じり合う。

「……ちゃんが相手じゃ、本気出せないじゃん……」

 苦笑いを浮かべて、ヒルダがを見あげた。
 の手にした剣が、誰の血で赤く染まっているのかは明白だった。ヒルダ、とその名前を口にすることはできなくて、は下唇を噛み締める。

「減らず口を塞いであげて」

 エーデルガルトの声に従って、は剣を振りかぶる。
 ヒルダが諦めたように瞳を閉じた。そうして、今際に唇が力なく言葉を紡ぐ。その声は小さくて交戦の音にかき消されたが、ヒルダを間近で見ていたには彼女が何を言わんとしているのかわかった。わかってしまった。

「許してあげてよね」

 ──誰が、誰を、許すというのだ。
 物言わぬヒルダを見下ろしながら、は刀身の血を拭う。
 級友を手にかけたのは初めてのことではなかった。五年前に袂分かったときから覚悟はしていたというのに、いちいち胸が抉られるような気分になる。

……」

 ヒルダの前から動くことができずにいたが、ベレスの呼びかけには顔をあげた。
 五年を経たというのに、全く変わっていないベレスを前にすると、途端に学生だった頃の自分になったような気がしてしまう。先生、とこれまた変わらずに呼んでいるせいかもしれない。

「平気です。行きましょう」

 は剣を握り直し、足を踏み出した。しかし、ベレスが手首を掴んで引き止める。

「とても平気そうには見えない」
「……」

 ベレスの気遣わしげな視線から逃れるように、は目を伏せた。
 あなたが選んだのだ。
 そんな、あまりに理不尽な言葉が口をついて出てきそうだった。は唇を結んでかぶりを振った。

 選んだのはとて同じだ。エーデルガルトの覇道に寄り添う道を選んだベレスに、ついて行く道をは選択した。クロードの傍を離れると決めたのは、もう五年も前のことだ。今さらその決意が揺らぐわけもない。

「師? 立ち止まっている暇はないわ」
「……わかった」

 エーデルガルトに促され、ベレスの手が離れていく。

「まあ、確かに平気には見えないわね」

 エーデルガルトまでもが、を見て小さく溢した。ベレスに続く足がひどく重かった。



 親帝国派と反帝国派で真っ二つに分かれたレスター諸侯同盟を、見事な手腕でまとめあげた盟主たるクロードは“卓上の鬼神”と呼ばれている。
 けれども、こうなってしまえばもはや逃げ場もない。

「参った、参った。やられたよ……」

 クロードが両手を挙げて、降参の姿勢をとる。負けを認め諦めたように見せておきながら、その瞳はまだ力を失ってはいない。
 クロードの翡翠の瞳はエーデルガルトを見て、ベレスを見て、そして最後にを見た。

 ──わたしは、あなたが焦がれても手に入れられなかった人の隣に立っている。
 その顔が悔しげに歪んでくれることを、は願ってやまない。そうでなければ意味がない。クロードの傍を離れたことも、ヒルダの息の根を止めたことも、それだけではないこれまでの後悔しても仕切れない数々のことは、その瞬間のためにある。

「クロード」

 ぽつり、と、の唇から名前が落ちる。
 エーデルガルトの視線がに向いて「そうね、あなたに委ねるのもの悪くないわ。愛した男の首を落としてあげなさい」と、淡々と告げた。

 は剣をぐっと握る。

「愛した男、ね」
「……」
「親友を手にかけた気分はどうだ? 教えてくれ」

 クロードが皮肉げに口角をあげる。

「……わたしが、あなたを捨てたんじゃない。あなたがわたしを捨てた」
「……」
「そっちこそ、どんな気分? 選ばれなかったあなたと違って、わたしは先生と一緒にいる」

 の声は震えていた。クロードのように笑ってやろうと思ったのに、うまくはいかなかった。

「クロード、天国に送ってあげる。わたしは地獄にしか行けないから、これでさよならだね」

 閉じた瞼が熱い。
 は剣を大きく持ち上げた。

 けれど、振り下ろすことができなかった。ベレスの手が、柄を握るの手に重なっていた。

「エーデルガルト、を試すような真似は感心しない」
「師……」
「それにしても、クロードが命乞いなんて面白いね。大きな貸しをつくってみない?」

 ベレスが口元に微笑みを乗せる。
 それが女神のように見えて、眩しくて、は直視できなかった。だって、クロードが双眸を眇めている。

、平気なふりはしなくていい」

 剣先が力なく下を向く。「見逃すというの?」と、エーデルガルトの声には焦りと緊張があった。
 このままクロードを生かせば、反帝国派の息の根は止められない可能性がある。けれど、ベレスが首を横に振る以上、皇帝だって何も言えなくなるのだ。

「……わかったわ、師がそう言うのなら」
「本当か! 助かったよ、先生、エーデルガルト」

 クロードが表情を緩めた。その顔が、あっという間にぼやけて見えなくなる。

──先生は、ずるい」

 いつまでも、クロードの特別であり続ける。クロードの瞳はベレスを映してばかりだ。
 立ち尽くすの胴にクロードの腕が絡みついた。そのまま、飛竜の上へと攫われる。ふう、とエーデルガルトが大きなため息を吐いた。

「皆の者、勝鬨をあげなさい!」

 エーデルガルトの声が、遠かった。







 デアドラの戦場から離れて程なくして、クロードが飛竜を止めた。バサバサと翼が羽ばたく音を、はクロードの腕の中で、ただ聞いている。

「おう坊主、生き延びたか!」
「ああ、何とかな……」

 答えるクロードの声は疲弊していた。
 パルミラの将としばらく話したのち、翼の音が遠ざかっていく。

 俯くばかりのの顔を、クロードの手が持ちあげた。翡翠色の瞳の中に、の泣き顔が映っている。クロードに手が届くわけがないとわかっていた。ベレスの隣にいようとも、その視界に入ることなんて、叶わない。
 今さら、こんなふうに視線が絡みあったって、には何の意味もない。
 失くしたものが多すぎる。奪ったものが多すぎる。

 ──結局、色んなものを犠牲にしたって、

「さて、あとはこっちを何とかしないとな」

 満身創痍のくせに、クロードの顔には笑みが浮かんでいる。下げた眉尻がやさしさを滲ませているが、この男の腹にあるものなどには見ることはできない。

「いい加減、泣き止んでくれると助かるんだが……」

 クロードの浅黒い指先が、の目尻にそうっと触れた。はかぶりを振って、クロードの手を払う。

「俺のせいで、お前はエーデルガルトについたのか?」
「……」
「いや、正確にはエーデルガルトを選んだ先生に、ついたのか」
「……そうだ、って言えば満足する?」

 は涙に濡れた瞳をクロードに向けた。

「賢いクロードには何だってお見通しなんでしょ、五年前もそうだった。わざわざ聞いて確かめる必要はないんじゃない? ねえ、卓上の鬼神さん」

「クロードは、いつだって……いつ、だって、」

 くしゃりと歪む顔を、はどうすることもできない。睨みつけているはずなのに、視界がぼやけてクロードがどんな表情をしているのか、もはや判別できなかった。

「先生に手を伸ばしてる」


 わたしの手をずっと握っていてほしかったのに。


 ヒルダには悪いが、許す、許さないとか、そんな感情はもう持っていないのだ。五年前からずっと、はクロードに会いたくて仕方がなかった。
 しゃくりあげるの背を、クロードの手がやさしく撫でる。
 そうして、その手はをぎゅっと抱き寄せた。は抵抗する気力も湧かなくて、クロードに身を委ねる。どうしてか、この腕の中は学生時代と変わらずに、を途方もなく安心させる。

「俺は、お前を捨てたつもりはなかったし、手放したつもりもなかった。ま、先生の傍にいれば安心だとは思ってはいたが……必ずまた、この手を掴むつもりだった」

 ぐす、と鼻を啜るばかりでは相槌すら打つことができない。

「……信じてくれ、なんて俺が言っても説得力に欠けるよなぁ」

 クロードが大きくため息を吐いた。「だけどな」と、クロードが続ける声は、珍しいことに緊張しているようだった。

「こうしてまた俺の腕の中にいるお前を、離すつもりはない」
「……クロード、」

 もぞ、と腕の中で身じろぐの顔をクロードが覗き込む。

「だいたい、好きなやつを見るときは、普通照れるもんだ。直視できないくらいにな」

 胡散臭いことこの上なかったが、は泣くばかりで文句のひとつも言えなかった。これでようやく、ほしかったものを手に入れたのではない。

 クロードが、手にしたのだ。

「さぁて、先生たちに挨拶に行くとするか」

 ずいぶんとのんびりとした声を、は目を閉じて聞いていた。


 食えない男だ、と思いながら空に羽ばたくクロードを見上げるエーデルガルトに対し、ベレスの表情は晴れやかなものだ。
 諸侯同盟はこれで瓦解したが、クロードが手のひらを返す可能性はなきにしもあらずなのだ。やはり、いっそのこと命を奪ってしまうべきだったのでは、と歯噛みするエーデルガルトをベレスが振り返る。

「心配?」
「ええ、懸念はあるわね。それにしても師……まで行かせてよかったの?」

 元々は金鹿の学級の生徒だった。それだけではなく、あのクロードの恋人だった。
 エーデルガルトの目には、はただひたすらに、ベレスを信じて帝国にまでついてきたように見えていた。ベレスが目を閉じる。

「……うん」


 ──これで、クロードは先生を見ない。

 光を失った翡翠の瞳を、瞼を下ろして隠したは泣いていた。「わたしはずっと、先生のことが羨ましくて、それと同じくらい憎かった」泣きながら、は今しがたクロードの首を落とした剣を、自身に突き立てた。


 天刻の拍動がなければ、二人が迎えていた結末だ。そんな場面がベレスの脳裏に浮かんでいることなど知らず、「師は甘いわね」とエーデルガルトがため息を吐く。

「……嫌いでは、ないけれど」

 エーデルガルトが照れたように小さく告げる。「それはよかった」と、細めた瞳の向こうで、飛竜が高く鳴いた。
 クロードの瞳はいつも盗み見るようにに向いていた。五年前に思いを馳せるベレスの唇が笑みをかたどる。救える命は取りこぼしたくはないと、教え子たちの顔を見てベレスの思いは強くなる。

「さよなら、。クロード」

 の隣にいるべきは自分じゃない。誰に言うでもなく、ベレスの呟きが風に乗って消えた。

落日

(滑稽だって、だから恋)