未だ現実味がない。アイクを抱きしめた腕も、ミストの涙を拭った指先も、まだ温もりを残しているような気がした。

「傍に居なくていいのかよ」

 ハッ、と軽く鼻で嗤う様はいつもと変わりないのに、を見下ろした顔は馬鹿にするような嘲笑は浮かんでおらず、どこか沈痛さを持った真剣な眼差しをしていた。それもそうか、と納得しながらはシノンを見上げて、すぐに視線を握りしめた手元に落とした。
 このひねくれ者が、唯一尊敬し、慕っていたグレイルが亡くなったのだ。気分も落ち込むというものだ。

「傍に、って……誰の?」
「……それ、本気で言ってんのかよ」

 ガタっ、と荒っぽい音を立てて椅子を引いて、シノンがテーブルを挟んだ向かいに腰を下ろした。頬杖をついて、つまらなそうに視線をから外している。は落としていた視線を持ち上げて、への字に結ばれた不機嫌そうなその口元を見つめた。

 シノンの言葉をもう一度脳内で反芻する。
 アイクとミストの傍に、という意味なのだとすぐにわかったけれど、はゆるくかぶりを振ってまた視線を落とした。

「肉親を失った家族に水を差すわけにはいかないでしょ」
「テメェは姉だろ」
「……そうだっけね。でも、きっと、グレイルさんが望んでいた姉にはなれなかったよ」

 はグレイルのことをいつもお父さんと呼んでいたが、ほんとうの家族になれたとは思っていなかった。姉さんともお姉ちゃんとも呼ばれていたけれど、いつもどこかに負い目があって遠慮があった。
 ──だって、母親のような愛情を、与えることはできなかった。

「本気かよ」

 シノンの雰囲気が剣呑なものに変わることに気づいて、は重ね合わせる手にぎゅっと力を込めた。鋭い視線に射抜かれているとわかって、殊更顔を見ることができなかった。

「グレイルさん、だァ? ふざけんなテメェ、あの人はお前のことを娘だと思ってたに決まってんだろうが。何勝手に壁作ってやがる」

 ぐうの音も出ない、とはこのことだ。シノンの言うことは尤もだ。
 血の繋がりがないことを、ばかりが気に掛けていた。だん、とシノンの握りこぶしが激しくテーブルを叩いた。びくっとの肩が跳ねたのは、驚きでも怯えでもあったし、反射的でもあった。

「だったら、テメェも一緒に出て行くか? グレイル団長が居なくなった傭兵団なんざ、家族ごっこもできねェだろうよ。甘ったれのアイクと泣き虫のミスト置いて、どっかに姿くらまそうと、グレイル“さん”はもう何も言わねぇしなァ」

 ケッ、とシノンが吐き捨てる。それから、力を入れ過ぎて白けた指先を解すように、の手を無理やり開かせた。じんわりと指に血が通う感覚がする。
 はおもむろに、伏せていた目をシノンへと向けた。翡翠の瞳は思いのほか静謐だった。
 いつも正確に的を射る矢を放つ、すらりと長い形のいい指が、の指に絡みつく。にはその手を払うことができなかった。

 言葉が喉の奥で痞える。わかっていた。グレイルがお父さんと呼ばれるたびに、嬉しそうに目を細めることも。姉さんとすこしだけ気恥ずかしそうに呼ぶアイクの信頼で満ちた瞳も、お姉ちゃんと腕を絡めてくるミストの甘えん坊な満面の笑みも──そこには、何の隔たりもないと知っていた。

「行けないよ」

 不格好に上擦って、引きつれた声が漏れた。
 泣き言を漏らさないアイクと、泣きじゃくるミストの手前、堪えていた涙が込み上げてくる。父娘と言うには余所余所しくて、姉らしい包容力もなくて、けれども確かに家族としての愛情がそこにはあった。

 はぎゅうと目を閉じて目頭に集まる熱を逃し、シノンを見た。相変わらず、翡翠の瞳は静かにを見つめている。
 シノンの手を縋るように握りしめる。

「行かないで」

 声が震える。指先も震える。

「……もうここにいる理由がねぇんだよ。アイクが団長の傭兵団なんざ、死んでもごめんだ」

 はもう一度、瞼を下ろした。答えなんて聞かなくてもわかっていたのに、こうして言葉にされるとひどく胸が痛んだ。「じゃあ、行っちゃうのね」と、呟く声はやはり震えていた。

 カタン、と静かに椅子が動く音がして、シノンが近づく気配を感じる。しかし、今にも涙が滲みそうになる瞳を開くことはできなかった。が握っていた手を、馬鹿みたいな力で握り返される。器用なシノンが力加減を間違えることは珍しいので、意図的なものなのだろうとわかっても、その意図までは計れない。
 握っていないもう一方の手が、の頬に触れてうつむく顔を持ち上げた。

「そういや言ってなかったな」

 囁くような声は、ほとんど唇が触れ合う距離で、吐き出された。さすがに驚いて目を開ければ、すぐそこにシノンの顔があって、思わず再び目を瞑る。唇が押しつけられるように触れた。

「グレイル団長に、テメェに手を出していい許可を得たってよ」

 見なくとも、にやりと唇が弧を描くのがわかった。







 付いてはゆけないを置いて、シノンは行ってしまった。
 ぼんやりと窓の外を見つめる。一夜を共にしたベッドには、もう温もりの欠片も残っていない。ガチャ、とノックもなしに扉を開けて入ってくる無礼者は、グレイル亡き今アイクしかいない。
 は苦笑を浮かべて振り返る。

「……姉さん」

 いつになく、沈んだ顔をしているアイクを手招いて、は自分よりも背の高い弟を抱きしめる。

「大丈夫。姉さんとミストと、家族でグレイル傭兵団を守りましょ」

 自分とは異なる蒼い髪をやさしく撫で、ぽんぽんとあやすように背を叩いてやる。年頃の男の子らしく、普段なら恥ずかしがるけれども、今ばかりはされるがままだ。

「お父さんが残してくれた傭兵団だもの。みすみす解散させるわけにはいかないわ」
「ああ、頼りにしている」

 アイクがいやに素直に頷くので、なんだか調子が狂う。じっと真っすぐ見つめてくる瞳から、は思わず逸らしてしまう。

「俺たちに遠慮なんかしなくていい。姉さんは、俺とミストの姉さんだ。親父のところに行ってやってくれ」

 思っていたよりもずっと、はグレイルの家族だったのだ。うん、とは小さな声で答えて、頷く。
 ふいに、ぐっと肩を掴まれて、顔を覗き込まれる。真摯な視線を受けたはたじろぐ。

「……シノンのことは良かったのか?」
「は、はい?」
「二人はてっきり恋人なのかと思っていたが」
「ち、ちがうから! アイク、変なこと言わないでよ」

 わたわたと焦ってしまい、これでは動揺しているのが丸わかりである。
 しかし、アイクは「そうなのか」と納得している様子なので、はほっと息を吐いた。

 あれだけの実力を持つシノンのことを、はあんまり心配していない。また必ず会える確信にも近い思いがある。


 シノンの言葉の真偽は定かではない。曲がりなりにも娘として可愛がってくれていたグレイルが、そのような許可を出すとも思えないのだが──グレイルに向かって「さんをください」と頭を下げるシノンの姿を想像して、はくすっと笑みをこぼした。

(やさしく瞼を下ろす手の感触が残っていて)