グレイル団長のいない傭兵団に舞い戻るのは、シノンにとっては不本意なことだった。なにより、思った以上にアイクがうまく団長を務めあげていることが、気に食わなくて仕方がない。しかし、ヨファやガトリーが手放しに喜ぶさまを見るとまんざらでもないのは事実だ。それに、古参であるティアマトもシノンの戦力を重宝しているようだし、すこしくらい力を貸してやってもいいという気になってはいるのだ。
 だが、相変わらず傭兵団には、シノンが顔を合わせたくないやつがいる──
 ガトリーを誘って飲みにでも行こうと思っていたところで、ふいに背中に重みが圧し掛かった。「シノンさぁ~ん」間延びした甘ったるい声が降ってくる。シノンは舌打ちとともに、後ろから首に回された腕を解いた。

「うるせぇ。おい誰だ、こいつに酒を飲ましやがったのは」

 苛立ったシノンの声にこたえるものはいなかったが、明らかにぎくりと身体を強張らせた姿があった。「ガトリーてめぇ」と、シノンは額に青筋を浮かべて近づくが、伸ばされた手が腕に絡みついた。むにゅりとしたやわらかな感触に、シノンの動きは止まる。
 振り返って見た顔は、気が抜けきっていて、真っ赤だ。シノンはため息をつく。

、放せ」
「いやです~。だって、勝手にどっか言っちゃうんですもん」

 シノンが黙って傭兵団を出ていったことを根に持っているのだろう。唇を尖らせたがますます手を絡めてくる。腕に胸が押し当てられているのだが、おそらくに自覚はない。
 もとはティアマトのようにお堅いやつなのだが、酒が入るといつもこうだ。
 酔っぱらいの相手は面倒なので、シノンは絡みつく手を振りほどいて、犬を追い払うような仕草をした。

 締め上げようと思っていたガトリーの姿はすでになく、シノンはまた舌打ちをした。そして、ガトリーに絶対に有り金がなくなるまで、酒をおごらせてやると心に誓う。

「シノンさんが冷たい……」

 いつものことだ。しかし、酔いの回ったには、感情のコントロールも難しい。見る見るうちに瞳が潤んで、紅潮した頬の上を涙が滑り落ちていく。

「うっ、うう、シノンさんが冷たい~」

 シノンは思わず眉間を押さえる。これだから、とは顔を合わせたくなかったのだ。
 自然と周囲の視線が集まってくる。「どうしたんだ?」人の間を縫って現れたアイクがすこしだけ目を見開いて、驚きを表す。シノンはアイクに答えることなく、の腕を掴んで引きずるように歩き出す。しかし、が駄々をこねるように抵抗した。

「やあっ、どこに行くんですかぁ」
「うるせぇ黙れ」
「んむっ」

 シノンはにべもなく告げ、の頬を片手で掴んだ。丸くなったの目からぽろりと涙が落ちる。

「……酒を飲んだのか」

 アイクのつぶやきを聞きながら、シノンはさっさとを連れて、宛がわれた天幕へと戻った。ガトリーの姿がないことを確認し、を天幕へと押し込む。「ふえっ」と、情けない声を上げながら、がよろよろと崩れ落ちた。
 シノンはため息とともに、水筒を差し出す。
 キョトンとした顔でそれを見つめていたが、ふにゃりと笑った。不覚にも、シノンはその顔にどきりとする。

「えへへ、シノンさん、やっさしい!」

 こくりと音を立てる喉元を無意識に見つめていたことに気づいて、シノンは目を逸らした。水筒を置いたが、猫のように身体を摺り寄せてくる。酒とは恐ろしい。ひとをこうまで変えてしまうとは。
 素面であれば、絶対にこのような姿は見られない。シノンの胸にぴたりと頬を寄せたが、上目遣いに見上げてくる。シノンは思わず言葉に詰まり、肩を掴んだはいいものの、を引っぺがすまでに至らなかった。の瞳が再び潤み始める。

「どうして、置いて行っちゃったんですか…?」


 なにも言わずに傭兵団を去ったことを責められるならまだいい。しかし、の言葉はそうではない。シノンはあえて、いつものように不機嫌な表情を浮かべた。

「けっ、てめぇなんざ連れて行っても、足手まといなんだよ」
「だからって、あんまりじゃないですか」
「……はっ。てめぇの気持ちなんざ知ったこっちゃねえ」
「シノンさんが、敵として現れたときの、わたしたちの気持ちくらい知ってください!」

 の手が、ぎゅっとシノンの服を掴んだ。「うまく、剣が、もてなくて」その指先が、カタカタと小さく震えている。
 その様子は、いやってくらいに、シノンの目にも映っていた。明らかに動揺して、格下だろうデイン兵相手に深手を負っていた。さすがにもう傷はすっかり癒えたようだが、敵としてあの場に立っていたシノンも肝を冷やしたのだ。

「……オレぁただの傭兵だ。てめぇが勝手に期待して、失望してんじゃねぇか」
「わたしにとって、シノンさんは」

 の潤みきった瞳から涙があふれる。

「ただの、仲間なんかじゃありません。そんなこと、シノンさんだってわかっていたじゃないですか」

 ──そう、わかりきっていた。
 シノンは小さくため息をつくと、肩に置いた手に力を込めての身体を離す。「それがどうした」と冷たく告げる。今さら、温かい家庭を築こうだなんて、そんなふうに考えたことなど一度もない。グレイル傭兵団の“家族ごっこ”で十分、もう腹いっぱいだ。

「それともなんだ、ちょっと抱かれただけで、なにか勘違いでもしちまったか?」

 シノンは口角を上げて、の顔を覗き込む。真っ赤な顔がさらに赤みを帯びる。さっ、と振りかぶられた手がシノンの頬を打つことはなかった。

 ひどい顔をしている。次から次へとあふれて落ちる涙は、枯れることを知らないようだ。
 水を飲んだとはいえ、まだ酔いはすこしも醒めていないらしい。次第に、声を上げて幼子のように泣きじゃくるので、シノンは参ってしまった。これでは、ミストやヨファよりもずっと手がかかる。

「シノンさんは、ひどい」

 恨み言のひとつやふたつ、聞いてやるつもりだったが、これっきりにしよう。こんな酒癖の悪いやつには、そう何度も付き合ってはいられない。シノンはそう思いながら、に胸を貸してやり、涙を指で拭ってやるのだった。





「シノンさん」

 間延びもしていなければ、耳につくような甘ったるい声でもない。昨夜のことが夢のように思えるほど打って変わった様子であるが、の泣き腫らした目元が現実だと示すようだった。
 結局泣き疲れたに簡易ベッドを占拠され、仕方なくシノンはガトリーを捕まえて夜明けまで街に出ていた。すべてガトリーのおごりであったことは言うまでもない。

「昨日は、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「ああ、まったくだぜ」

 けっ、と悪態をつくと、が恐縮してうつむく。シノンはそのつむじを一瞥し、踵を返した。「し、シノンさん」と、が蚊の鳴くような声を上げながら、シノンの服の裾を掴む。
 シノンは首だけで振り返り、を見下ろした。

「すこし、お話しできますか?」
「話すことはねえ」
「……わたしは、あります」

 が真っすぐ過ぎるほどの視線でシノンを射抜く。こうなると頑固であることをシノンは知っている。ため息をひとつついて、身体ごとに向き合う。

「手短に済ませろ」

 シノンは冷たく言い放つ。すこしだけ気圧されたようだったが、が視線を逸らすことはなかった。
 すう、とがちいさく息を吸い込んだ。

「足手まといにならないので、どうかわたしを傍に置いてください」
「はあ? 嫌だね」

 シノンは思い切り顔を歪めて、にべもなく言い放つ。多少怯んだのか、が言いよどむが、なおもその視線は真っすぐシノンを見る。

「どうしてですか?」
「けっ。おまえみたいなやつ、いないほうがマシだ」
「どうして、」
「……」

 の目尻にじわりと涙がにじんだ。
 シノンは、話は終わったとばかりに背を向ける。の実力は知っている。足手まといになるかと言われれば、正直ならないくらいには、成長している。しかし、シノンほどの傭兵であれば、生ぬるい仕事など選ばない。

 そんなところにを連れまわす気は、シノンにはさらさらなかった。口が裂けても本人には告げないが、それがを傭兵団に置いていった理由だった。

「……勘違いさせたの、シノンさんでしょう」

 シノンははっとして振り返る。昨日の会話を覚えていたのか、とシノンは苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。の顔はうつむいて見えない。しかし、ぽつぽつと雨のように、涙が落ちていくのが見えた。

「…………責任、とってください……」

 シノンはなにか言うべきか迷って、しかし再び背を向ける。ち、とちいさな舌打ちを残すのみだった。



 やはり、こんなところに戻るべきではなかった。
 シノンは苛々としながら、弓矢の整備をする。その様子を興味深げに見ていたヨファも、シノンの不穏な雰囲気を感じ取って、そそくさとどこかへ行ってしまった。「し、シノンさん。昨日のあれでもう許してくださいっす。機嫌治してくださいよ~」と縋りつくガトリーをひと睨みで黙らせる。

「シノンさん」

 ふいにが天幕に顔をのぞかせる。ガトリーが天の助けとばかりに「あー、! シノンさんに話があるのか、そうか~。じゃあおれはこれでっ」と、と入れ違いになって天幕を出ていく。
 が神妙な顔をしてそれを見送り、なにも言わぬシノンの傍へと腰を下ろした。

「あの」

 がシノンの手元見つめながら口を開く。

「シノンさん、はじめに断っておきます。わたし、諦めが悪いんです。すみません」

 シノンは顔を上げる。が視線に気づいて、すこしだけ照れたように笑った。「だって、シノンさん、こうして戻ってきてくれたんですから」赤く腫れぼったい目元が、やわらかく細められるのを、シノンはただ黙って見ていた。
 あけすけな好意に、ほだされたのも手を出したのも、結局は自分だ。今さら、シノンにそれを咎める権利などない。

「シノンさんが背中を預けられるくらいになります」

 シノンはため息をついて、弓を置く。

「おまえ、なんにもわかっちゃいねぇな」
「え……」
「誰がてめぇなんかに背を預けるかよ」

 が傷ついたように胸を押さえて、うつむく。シノンはもう一度ため息をついて、の額を小突いた。「いたっ」と、思わずと言ったようにが声を上げた。シノンは素早く、その赤くなった額に口づけた。
 が呆然と額に手を触れる。

「けっ。くそ真面目すぎるんだよ、てめぇは。そのお堅い頭で、オレがどうしておまえを置いていったのか、もう一度よーく考えるんだな」
「……し、シノンさん、」

 の顔が見る間に赤くなっていく。「あの、じゃあ、答えが出たらまたきます……」がふらふらとしながら天幕を出ていこうとするので、シノンはその手首を捉えて引き寄せる。

「オレは短気なんだ。さっさと答えな」

 耳元でささやくと、の身体が強張る。シノンはトマトのように真っ赤なの顔を覗き込んで、にやにやと笑う。

「……正解したら、ご褒美だ」

 が困ったように眉尻を下げた。「期待するなってほうが無理じゃないですか」と、がふてくされたように唇を尖らせる。
 その顔を見て、シノンはくつくつと笑った。

しかめっつらの真相

(そんなこともわからないのか)