素早く踏み込まれて、アッシュのつがえた矢は標的を見失う。慌てて後退しながらもう一度弓矢を引き絞ったときには、すでに何もかもが遅かった。
 距離を詰められた弓兵ほど無力なものはない。
 敵わないことは知っていた。五年も経って背丈はべレスを追い越したのに、対峙した瞬間に気圧されたのは教師と生徒の名残りではない。単純に実力差を悟ったのだ。五年前には決して向けられることのなかった、敵意というものを向けられて、アッシュは改めてべレスの強さを思い知らされた。
 だからといって、ここで退くわけにはいかなかった。アッシュは、ローベ家の騎士だ。

 ベレスは手にした剣ではなく、足先で空を切った。足を払われたアッシュは地面に倒れ、顔を上げた先に鈍色が光った。

「言葉も交わさずに斬り伏せるほど、非情なつもりはないよ」

 ベレスの声が、諭すように穏やかだったので、アッシュは泣きたくなる。しかし、泣くことなど許される状況ではなかった。ぎゅ、とアッシュは拳を握りしめる。
 ロナートならば、騎士としての務めを果たすに違いない。
 アッシュはロナートを尊敬している。同じように、ローべ家の騎士としてその責務を果たしたいのだ。たとえ、かつて学び舎を共にした者たちと刃を交えようとも──

「僕は……今さら、退くわけには」
「ローベ家なんぞと心中するつもりか?」

 ユーリスが嘲笑交じりに吐き捨てた。
 そうだ、と声を大にして言いたかった。ローベ家の養子の身だったくせに、ローベ伯への恩を仇で返すような君とは違うのだと、アッシュは叫びたい気持ちを抑えてユーリスを見た。

「……守りたいんだ」

 何度も何度も読んだ物語のように、憧れていた騎士になれたとは思わない。けれども、どうしたって譲れないものはある。

「アッシュ」

 ガルグ=マクにいた頃と変わらずに、ベレスが親しみを込めて名前を呼ぶ。
 躊躇が逡巡に変わってしまわぬように、アッシュは視線を背けた。先生、と縋ってしまわぬよう、唇を噛みしめる。

「君を殺したくない」
「っ……」

 ベレスが躊躇うことなく、剣先を引いた。アッシュの手元にはまだ弓があり、矢だっていくらでもある。やろうと思えば弓を引くことができた。
 アッシュはきつく目を瞑る。瞼の奥が熱くて、鼻がつんと痛む。

「どうして……」
「今でもまだ、自分にとっては君は生徒だ。五年も経ってしまったけれどね」

 剣の代わりに、ベレスの手のひらが眼前に差し出される。視界が潤んで、歪む。

「先生……お願いします、どうか、彼女だけは」

 何とか絞り出した声は、掠れて震えていた。「彼女?」と、べレスが不思議そうに首を傾げる。その仕草が、五年前と全く変わっていないから、アッシュは落涙を止めることができなかった。


 “灰色の獅子”グェンダルの名をアッシュが知らぬわけがなかった。
 昔から騎士道物語が好きで、騎士に憧れていたアッシュにとって、こうして戦場に共に立てることは夢のようだった。対峙するのが、べレスの率いるクロードたちでなければと何度思ったかはしれない。

 アッシュは、ガスパール領城主であった今は亡きロナートの養子だ。ガスパール領は、ローべ家の支配下にある。そして、ローべ家の当主たる伯爵は、この戦いにおいてファーガス王国を捨てて帝国に与することを選んだ。
 いずれはと思いながら、騎士として覚悟を決めたはずだった。

を、殺さないでください」

 地面に落ちた涙が、煉獄の谷の名に相応しい熱さで蒸発して、しゅわりと小さな音を立てた。





 恐ろしいのは、自分が死ぬことではない。べレスや友人に弓を引くことでもない。を守れないことが、アッシュは恐くて仕方がない。
 グェンダル卿の傍に控えるの姿は、ここからではよく見えなかった。

 五年前のいつか──食堂でイングリットがシルヴァンを詰ったことがあったが、その際に息女に手を出してグェンダル卿の怒りに触れた、と話していた記憶がアッシュにはあった。だから、グェンダル卿の娘だと言ったを前にしたとき、アッシュは思わず身構えてしまった。
 が、いかにもシルヴァンが声を掛けそうな、美しい女性だったからだ。アッシュは件の彼女だと思い込んだが「それは、姉様の話よ」と、のちにが笑い飛ばした。

 彼女は、物語に出てくる姫君ではない。
 父と同じように鎧を身に纏い、武器を手にする。ともすれば、アッシュよりも強い。守りたいだなんて、おこがましいとわかっている。わかってはいるのだ。


 グェンダル卿は、主命ならば無意味な戦も厭わない。それが彼の騎士としての矜持であり、娘であるもそれをよく理解している。
 父を尊敬していると、はよく言っていた。

「だからこそ、父の背をずっと見ていたい。最後の最期まで、傍にいたい」

 アリルの岩山に立ち、そう呟くように告げたの横顔は憂いに満ちていた。この戦の行く末は、目に見えていたのだ。それでも、ローべ家の老騎士は獅子の旗を掲げて進軍する。

「アッシュ」

 何も言えずにいるアッシュを、が見つめた。その瞳は、わずかに潤んで煌めいて見えた。死なないでほしい、とはどうしても口にできなかった。
 アッシュもまた、騎士だ。

「違う未来があったらよかったのに」

 の額がこつりと胸当てに触れても、アッシュはなお口を噤んだままで、抱きしめることだってできなかった。



 ぐ、と差し出されていた手が、俯くばかりのアッシュの肩を掴んだ。アッシュはのろのろと顔を上げる。べレスが、戦場にはとても似つかわしくない、優しい笑みを浮かべる。

「それなら、こんなところで立ち止まっている場合じゃない」

 手の中にあるだけだった弓を、アッシュはぎゅうと握りしめた。
 そうして、アッシュは手の甲で涙を拭う。「はい!」と、力強く頷けば、ユーリスが喝を入れるようにアッシュの背を叩いた。










 アリアンロッドの領主たるローベ伯は、王国南部の貴族の中では有力者である。凡庸な能力しか持たないが、“灰色の獅子”グェンダル率いる騎士団は精強と名高い。
 けれど、もうこうなってしまえば、終いだ。

 アリルの暑さは容赦なく騎士団の体力を奪い、熱を持った鎧が息を苦しくさせる。足場の安定感もなく騎馬の機動力を殺す。飛竜に跨ったクロードの矢が狙いすます中、グェンダルが槍を手に「ローベ伯が騎士、“灰色の獅子”グェンダル……参る!」と名乗りを上げた。
 は暑さに揺らぐ視界で、父の勇姿を焼き付けるために瞳を開く。

「おお、怖い。だが、こっちもビビって退くわけにいかないんでな」
「フン、若造が!」

 ここがグェンダルの死に場所だなんて、は認めくはなかった。それは、娘としてのわがままな感情であるということがわかっているから、はただ一介の騎士として付き従う他ないのだ。
 ──騎士とは、誇り高く、その信念のせいで時に融通が利かない。


「アッシュ、どうして……」

 は動揺を隠すことができずに、呆然と呟いた。
 噴き出る炎がアッシュの姿を隠してしまうが「!」と、炎の向こうから声はの耳に届く。
 思わず駆け寄りそうになる足をは必死に留める。

 アッシュは故ロナート卿の養子で、と同じくローベ家の騎士だ。歳が近くて話しやすく、いつの間にかよく一緒に行動を共にするようになった。物腰の柔らかい青年で、グェンダルとは全く違う雰囲気だったが、騎士としての矜持を大切にしていた。
 五年前にガルグ=マク士官学校を共に過ごした相手と対峙することになるとわかっても、アッシュは逃げなかった。

 本来ならその年、もガルグ=マクに入学する予定だった。けれど、ゴーティエ家の嫡男も入学すると知り、かつての愚行を未だ許さぬグェンダルが白紙にしたのだ。

「この先に未来がないとしても、僕は信念を貫き通したい」

 アッシュがそうこぼしたときに、は制服を着て彼と笑い合う光景を想像した。
 もしも、ガルグ=マクで生徒として出会っていたのならば、もっと何か違う未来が待っていたのだろうか。


、僕は……!」
「笑わせるな若造、わしの目が黒いうちに娘に手を出せると思うな!」

 クロードによる矢傷など物ともせずに、グェンダルが手綱を引いてアッシュに向かっていく。

「父様っ」

 の口から飛び出た台詞に、グェンダルがわずかな一瞥をくれる。
 ハッとして唇を押さえる。戦場においては父娘ではないと理解しているはずだった。

「だったら……僕はあなたを倒して、の手を取ります」

 アッシュが怯むことなく、グェンダルに向けて矢をつがえた。やめて、と娘であるが叫ぶ。終わらせて、と騎士であるが叫ぶ。心の中ではそうせめぎ合っていたが、唇からは何の言葉も出てはこなかった。
 放たれた矢は馬の脚を射抜き、落馬したグェンダルが態勢を整えるより早く、天帝の剣が振るわれた。

 一人では逝かせないと思っていた。駆け寄ろうとしたを止めたのは、他でもないグェンダルだ。

「……お前の死に場所は、ここではない………」

 ふいにの足元から炎が噴き出る。
 肌を焼かれる前に、を抱き寄せる手があった。「、大丈夫ですか!」と、アッシュが慌てた様子で顔を覗き込んでくる。
 に怪我がないことを確認して、アッシュが小さく息を吐いた。

 はじっとアッシュを見つめる。

「グェンダル卿の代わりになれるとは思いません。でも、僕がを守ります。絶対に守ります。だから、僕と一緒に来てくれませんか?」

 いつか、抱きしめてくれることのなかった腕が、を包んだ。の涙が、じんわりとアッシュの胸元を濡らしていく。
 騎士として、君命によりここで戦って死ぬのだと思っていた。アッシュと共に笑い合う未来なんて、ありはしないのだと思っていた。けれど、グェンダルは最期に“父”としての背を押してくれたのだ。

「うん……」

 アッシュが手を引いてくれるなら、どこへでも行けるような気がした。



「君がか」

 敵対していた大将であるべレスが、友好的に手を差し出す。は一瞬だけ警戒したが、しかしアッシュも己も彼女に命を救われたのだと思い至り、握手を交わした。

「父は、騎士としてしか生きられませんでした。“灰色の獅子”に相応しい最期を、ありがとうございました」
「……騎士の矜持というものか。自分にも、少しわかるような気がするよ」

 優しい眼差しを向けられて、は彼女を先生と呼び慕う自分の姿を思う。けれど、うまくは想像できなくて「これからよろしくお願いします、べレス殿」と、は頭を下げた。
 グェンダルの死を悼む騎士団の皆は、たとえローべ伯に反旗を翻すことになろうとものことを見逃してくれるだろう。こちらこそ、とべレスが唇に笑みを乗せた。
 ベレスと入れ替わるようにに近づいてきたアッシュの顔は暗い。

「……グェンダル卿のこと」
「アッシュ、いいのよ。わたしは父を誇らしく思うわ」

 だから、とは続ける。俯きがちのアッシュの顔を覗き込んで、は微笑んだ。

「わたしは父に恥じぬように、胸を張って生きる。あなたと一緒に」

「父様に凄まれて怯まない殿方は、アッシュが初めてよ」
「あ、あの時は、精一杯で無我夢中で……!」

 アッシュが顔を赤らめる。
 はくすくすと笑いながら、額をアッシュの胸に預ける。アッシュの手が戸惑いながらもの背に回って、ぎゅうと抱き寄せた。

棄てよ

(この手は、君を守るためだけに)