アネットと同じか、すこし高いくらいの背丈は、雑踏の中ではすぐに埋れてしまいそうだった。はぐれないように、と何度も手を伸ばしかけて、けれど小さな手を掴む勇気が出ない。

 意気地なし。
 アッシュは内心で、自分自身に吐き捨てる。こんなふうだから、シルヴァンに「初々しいね~」などと揶揄われるし、ディミトリやメルセデスには見守るような眼差しを向けられてしまうのだ。
 前を行くの足取りは軽い。視線があちこちに向くたびに、ふわっと毛先が跳ねる。

 時おり、振り返るの瞳がアッシュを捉えて、やわらかく細められる。どきりと高鳴る胸を悟られないように「前を向かないと危ないですよ、」と、アッシュは都度やさしく諫めた。
 大丈夫よ、と答える声すらも歌って聞こえるほど、の機嫌がいい。
 そんなを見ていると嬉しくなるし、彼女とこうして出かけること自体がアッシュには幸いに他ならない。たとえ荷物持ちだろうと何だろうと、と過ごせるのなら構わない。

 くすくすと笑いながら前を向いたが、通行人に肩をぶつけてよろめく。アッシュは咄嗟に手を伸ばして、の身体を支えた。

「ありがとう、アッシュ」

 はにかむように微笑んだの頬が、薄く色づいていた。
 アッシュにはその顔を直視できない。視線を逸らした先で、とぶつかった通行人が謝りもせずに遠ざかっていく。その後ろ姿が、何かを隠すような不自然な動きをしていることに気がついて、アッシュは眉を顰めた。

、必要なものは買えましたか?」
「え? あ、ええ、そうね」

 の視線が、アッシュの手元に落ちる。そして、窺うようにアッシュを見上げて「アッシュ、どうかした?」と、小首を傾げる。その表情が不安げに曇っているので、アッシュは安心させようと笑った。

「すみません、買い忘れたものを思い出したので、先に行っていてくれますか? えっと、すこし先の広場のベンチで待っていてください」
「アッシュ、」

 やや早口になってしまった。アッシュは「本当にすみません、すぐ戻ります」と、念押しして、の背をやさしく押した。




 人混みの間を縫うように駆ける。
 程なくして、アッシュは先ほど見た背中を見つけて、手を伸ばした。

「待ってください」

 掴んだ肩が大袈裟に跳ねる。振り向いて、アッシュを見る目は怯えに満ちていた。アッシュはその目を知っている。

「な、なんだよ」
「返してください」
「なにを、」
「盗りましたよね? 返してくれれば、大事にはしません」

 ぐ、とアッシュは肩を掴む手に力を込める。ぼろ切れを纏ったような、薄汚れた身なりをしていた。「わ、わか、わかった」と、震える手で、の財布を懐から取り出す。

「……」

 転げるように逃げていく背を、アッシュは見つめた。
 あれは、自分だ。かつての自分であり、未来の自分だったかもしれない姿である。

 の財布を持つ己の手が、急に汚れて見えた。
 食うに困って幾度となく悪事を働いた手で、の手を握っていいわけがない。アッシュは目を伏せて、ため息を吐いた。が待っているとわかっているのに、足がなかなか動いてくれない。

 ほとほと自分が嫌になる。生きてきた世界が全く違うのだと思い知らされるように気になって、やるせない。すぐにスリに気づくなんて、ふつうに生きてきたらあり得ない。


 アッシュの言った通りに、広場のベンチにが座っている。その姿を認めて、アッシュはほっとして歩調を速めた。

! すみません、待たせてしまって」
「アッシュ」

 が顔を綻ばせ「そんなに待ってないわ」と、かぶりを振った。

「わたしのほうこそ、自分の買い物ばかりしてしまって、ごめんなさい。買い忘れたものは、買えた?」

 買い忘れたものもなければ、買ったものもない。嘘はあまり好きではないし、罪悪感が湧き起こる。アッシュは思わず言葉に詰まるが、すぐに笑って頷いた。

「そうだ、何か飲み物を買ってきますよ。すこし休んでから帰りましょう」
「アッシュ」
「は、はい、何ですか?」

 踵を返しかけたアッシュの手を、の手が掴んだ。触れた手は、思っていた通り小さくてやわらかい。動揺から声が上ずる。
 ──自分はあんなにも触れることを躊躇ったのに。

「それよりも、帰ってお庭でお茶しましょう? ほら、今日はこんなにいい天気だし、それにさっき珍しい茶葉を買ったの」

 が天を仰いだ。アッシュもつられて視線を上げる。確かに、雲ひとつない快晴だ。
 ふいに、アッシュはロナートの一件を思い出す。大聖堂のベンチで、俯いてばかりのアッシュに同じように「ねぇ見て、今日はすごくいい天気よ」と、が隣に座って何てことないように声をかけてくれた。
 その時も、こうして天を仰いだ。下ばかり見ていたせいで、ステンドグラスがひどく眩しかったことを覚えている。

 アッシュは空から、へと視線を移した。「ね?」と、笑うその顔が太陽のように眩しくて、アッシュは目を眇める。
 きゅ、と控え目にアッシュはの手を握り返した。

「わかりました。あ! 、そういえば財布……」

 これ以上嘘を重ねるのは心苦しい。正直に盗まれていたことを告げるか、迷う。

 お財布、とが不思議そうに呟いて、首を傾げる。髪の毛がその動きに合わせて揺れた。アッシュを見つめる瞳が、ぱちぱちと瞬かれる。

 彼女は食うに困ったこともなければ、もちろん盗みを働いたことだってない。
 当たり前だ。貴族で、しかも紋章を持っていると自分とは、やはり何もかもが違いすぎる。

「すぐに言わなくてすみません。実はさっき、とぶつかった男……君の財布を盗んでいました」
「えっ? や、やだ、ほんとう……」
「あの、買い忘れたものもなくて。ただ、これを取り返しに行っただけなんです」

 の手に財布を握らせ、アッシュは手を離した。

「ありがとう」

 が財布を鞄にしまうのを見届けて「それじゃあ、帰りましょうか」と、アッシュは笑いかけた。立ちあがったが、左手を差し出す。

「人が多いから、エスコートしてくれる?」

 悪戯っぽく言って、がアッシュの右手を握った。
 帰路の中、繋がった手を意識してしまい、アッシュはうまく話すことができなかった。





 休日の中庭は、珍しく閑散としていた。
 ティーポットを持つの手は、白くて小さく、綺麗に爪が整えられている。
 慣れた手つきでカップに紅茶を注ぐ様は、ひどく上品だ。ただお茶を飲むだけだというのに、アッシュは何故だか気後れしてしまう。

「何だか高そうな香りですね……」
「ふふ、どうぞ。お口に合えばいいんだけど」

 カップを持ち上げる。馴染みのない香りがふわりと薫った。
 正直言って、茶葉の良し悪しの区別はつかないし、値段なんてもっと判別できない。火傷しないように気をつけながら、紅茶を一口含む。香りが鼻を抜けていく。

「美味しいですね」
「よかった! アッシュ、甘いもの好きよね? お菓子もいっぱいあるのよ」
「わあ、美味しそうですね。ありがとうございます」
「お礼なんて。わたしのほうこそ、買い物に付き合ってくれてありがとう。アッシュと一緒だと楽しくて、色々見たくなっちゃって……荷物まで持ってもらって、疲れたでしょう?」

 が恥ずかしそうに目を伏せる。落ち着かない様子で、カップの持ち手を指先でなぞっている。

「全然、疲れてないですよ。僕も楽しかったです。また一緒に出かけましょう」

 うん、と返ってきた言葉はどこか生返事だった。
 がきゅっと拳を作る。伏せられていた瞳が、アッシュを真っ直ぐ捉える。

「アッシュ、敬語をやめてほしいの」
「え? ど、どうして急に」
「ずっと思っていたのよ、でもなかなか言えなくて。わたし、メルセデスのことが羨ましいわ。わたしにも砕けた口調で話してほしい」

 が下唇を噛む。
 緊張のせいか、次第に潤んでいく瞳を、アッシュは呆然とした気持ちで見つめた。何か言わなくては、と思うのに動いた唇からは音が出なかった。ただ、深いため息が漏れる。
 これは、安堵のため息だ。

「……はは、何だかびっくりしすぎて、気が抜けちゃった。がそんなふうに思ってくれてたなんて、嬉しいな」

 姫君と騎士、王子と町娘、お嬢様と従者──物語ならばありふれているけれど、現実はそう甘くはないと、アッシュは知っている。いつか、だって貴族の子息と結婚するのかもしれない。
 けれど、そんな不確かないつかを恐れてどうするというのだ。

 ディミトリだって、貴族と平民であれ対等な仲間だと言ってくれていた。自分はしがない平民で、やましい過去だってある。紋章だって持たない。
 それでも、この想いを伝えることは許されるだろうか。
 勇気を振り絞って、アッシュは自分を奮い立たせる。この期に及んで意気地なしなんて、御免だ。



 アッシュは、テーブルの上で握られたの手を包み込む。

「僕は君が好きだ」

 まるく見開かれたの瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。「夢みたい」とが小さく呟いたが、それはアッシュだって同じ気持ちだった。
 テーブルに身を乗り出して、アッシュはの涙を指で拭う。
 の濡れた瞳がやさしく目尻を下げて、赤くなった頬を緩ませる。

「わたしも、アッシュのことが好きよ」

 今日見た中で、一番眩しい笑顔だった。

(僕の隣を歩く君の足取りは、踊るように軽い)