ひどく無口な少女だった。
ベグニオン帝国の将軍に“飼われていた”らしい彼女は、サザが見つけたとき足枷を付けられていた。長い睫毛に縁取られた宝石のような瞳は、ただぼんやりとサザを映すばかりで、助けてとも言わなかったし身じろぎひとつしなかった。
奴隷のような扱いをされている、と一目でわかった。それと同時に、サザの脳裏には三年前にグレイル傭兵団と行動を共にした際の記憶が過った。サザと年の変わらないトパックと、ベグニオン貴族の元奴隷であったムワリム──あれから顔を合わせることはなくとも、過ごした日々を忘れたわけではない。
憐れに思ったのかもしれないし、正義感じみたものに突き動かされたのかもしれない。助けたいと思ったのは確かだ。
サザに担がれてなお、彼女は言葉を発することはなかった。
ふとした瞬間に声は漏れていたので口がきけないわけではない。
問いかけには首を振って答えるので耳が聞こえないわけではない。
「」
そう初めて発したのは、出会ってから半月も経ってからだ。
それは、彼女がサザたちを信用するまでに必要な時間だったのかもしれない。何せ、見た目よりも歳を重ねている彼女には、警戒心も猜疑心もあって当然だ。
少女の姿をしているけれど、の年齢はそう呼ぶには相応しくない。ミカヤと同じなのだと、サザが気づくのにそう時間はかからなかった。
──の姿が、まるで鷺の民と瓜二つだったからである。
ノイスから借りた本に目を落としていたが、サザに気がついて顔を上げた。唇を結んだまま、目礼だけをくれる。
相変わらず、その声を聞くことはほとんどできない。
「ミカヤは?」
の視線が動いて、閉ざされた扉を指す。部屋を覗けば、静かに寝息を立てるミカヤの姿があった。
いつからか、銀の髪の乙女と呼ばれるようになったミカヤには、民衆の期待が寄せられるようになった。暁の団の活動が活発になるほど、ミカヤの負担は増える。サザには姉ぶって平気な顔しか見せないが、心身ともに疲弊しているはずだ。サザがどれだけ制止しようとも、心優しいミカヤの癒しの力を使う機会も増えている。
サザは小さく、ため息ともつかない息を吐いて、腰を下ろした。その様子を黙って見ていたが、本を置いて立ち上がる。
静かな空間に湯を沸かす音が聞こえる。それに混じって、ひどく小さな鼻歌がサザの耳に届いた。
白い指先が丁寧な仕草で、ティーポットに湯を注いでいる。サザの視線など露ほども意に介さず、小さな背は上機嫌にわずかに揺れていた。黄金色の髪がサラサラと動いている。
か細さすら感じるその鼻歌は、不思議と心地よい。
鼻歌が止んで、目の前にカップを差し出されて初めて、サザは目を閉じて聞き入っていたことに気づいた。碧眼がじっとサザを見つめて、ゆっくりと瞬く。
「……ああ、ありがとう」
が首を横に振る。そうして、同じように湯気の立つカップを手に、サザの向かいに座る。読みかけの本を手に取って、目蓋を伏せる。長い睫毛が目元に影を作った。
の白い指先が、頬に落ちた髪をひと房すくって耳にかける。耳の後ろあたりに小さな痣が見えた。それを特別隠すそぶりもない。
「なあ、。あんたは……」
が視線を上げた。
けれど、その視線はサザを捉えることはなく、その背後に向けられていた。サザは訝しみながら振り返る。
「あ~減ったあ!」と、エディが勢いよく扉を開けて入ってくる。そのあとに「もうちょっと静かに」と、レオナルドが呆れた顔で続く。ノイスが「よし、皆揃っているようだな。飯にしよう」と、アジトの扉を閉めながら告げた。
の視線が動く。「おかえり、皆」と、扉から顔を覗かせたミカヤが微笑んだ。
「耳がいいんだな」
サザがぽつりと呟けば、が瞳を柔らかく細めて、ほんのわずかに口角を上げた。
「を連れて行くのか?」
そう言ったのは、ノイスだ。
ベグニオン駐屯軍に姿を見られたことにより、ネヴァサのアジトを離れざるを得なくなったサザたちは、それぞれ荷物をまとめている途中だった。
にまとめる荷物はない。ちょこんと椅子に座って、慌ただしい様子をただ眺めている。サザは手を動かしながら、を視線だけで見やる。“印付き”の彼女ならば、一人で生きていくことなどどうとでもないのだろう。
「……はどうしたい?」
サザの問いかけに、が首を傾げる。サラ、と髪の毛が肩を滑り落ちる。
「俺たちと行くか、ここに残るか。が選ぶんだ」
「で、でも、は戦えないし……」
「エディ」
レオナルドに制されて、エディが物言いたげな顔をしながらも口を噤む。ミカヤもノイスも、心配そうにを見つめて答えを待っている。
がその顔を見回して、サザに視線を戻す。
「一緒に行く」
が小さな声とともに立ち上がる。「決まりだ」と、サザはの頭をポンと軽く叩いた。
ベグニオン駐屯軍の目は厳しく、以前のようにひとつの場所に留まることが難しい。野宿が続いていたが、が文句を言うことはなかった。
ふいに小さな歌声が聞こえた。鼻歌ではない。
サザは目を閉じて、その歌に耳を傾ける。
の歌には、鷺の民と同じく不思議な力があるのだろうか。次第に疲労が和らいでいくような気がした。目蓋がくっついて離れなくなる前に、サザは目を開けた。
かさ、と草を踏みしめる音がして「サザ」と、蚊の鳴くような声が降ってくる。
サザが顔を上げるより早く、地面に腰を下ろしたサザに視線を合わせるため、が蹲み込んだ。の抱える籠には、木の実や果実、きのこなどが入っている。
「は歌が好きなんだろう。どうしてもっと歌わないんだ?」
がサザの隣に座る。ぼんやりと宙を見つめる様は、初めてを目にしたときを思わせた。
「たくさん、歌わされたから、あんまり声を出せないの」
「え……」
が喉元に手を添える。
「喉から血が出ても歌わされた。だから、大きな声が出ないし、長く喋れない」
小さく咳き込んだの背を、サザは慌てて撫でる。すぐに落ちついて、が大丈夫と口だけを動かした。
「悪い」
嫌なことを思い出させただろうか、とサザは顔を曇らせる。
しかし、首を横に振るの表情は思いのほか、穏やかだった。がサザの耳に唇を寄せて、小さな小さな声を囁く。
「サザはやさしいね」
に抱く感情が同情なのか、サザには判断がつかなかった。ただ、守らなければならないと、強く思うのだ。
ふいに聞こえてきた歌声に、サザは顔を上げた。
夜は更けており。天幕の外は暗くて静かだ。サザは灯りを手にして、歌声が聞こえるほうへと導かれるように足を向けた。
「? 眠れないのか?」
陣営地から少し離れた場所で、は一人だった。「こんな時間に出歩いたら、危ないだろ」と、サザは咎めるように言って傍に立った。
歌声は止まない。
「喉は大丈夫なのか」
が振り向く。月明かりのもとで微笑むには、神秘的な美しさがあった。
楽しそうに歌うに対してそれ以上何も言えずに、サザは口を噤んだ。
義賊のような活動をしてきた暁の団が、今やデイン解放軍の一員で、ミカヤなど副大将である。デインを救いたい気持ちはサザにだって理解できるが、いまだに納得しきれてはいないし、銀の髪の乙女としてミカヤを利用するイズカには怒りを覚える。
「……あの人みたいに、強くなれるかな」
サザの脳裏には、三年前に行動をともにしたアイクの姿が焼き付いている。傭兵から将軍に登りつめ、クリミアの英雄となった勇姿は、サザの憧れだ。
ミカヤを守れるのか、不安になる。これからサザたちは、本格的にベグニオン駐屯軍と敵対していくのだ。
「大丈夫」
ふいにの手が、サザの頭をやさしく撫でる。「サザはミカヤを守れるよ」と、その声はいつもよりも力強く響いた。
「俺は……のことも、守りたい」
「……わたしが、ミカヤと同じだから?」
「違う! 俺は、そんな理由であんたを守りたいわけでも、助けたわけでもない」
「サザ?」
が不思議そうに瞳を瞬かせる。
「どうしてミカヤに向ける感情を、わたしに向けるの?」
「え?」
鷺の民は心が読める。
サザはそれを思い出し、はっと息を飲んだ。
「考えていることがわかるのか?」
が首を横に振る。「そこまでは……でも、どんな色の感情なのかは、わかる」と、困惑した様子で告げる。
「いつもミカヤを見るときは、あたたかい色をしてる。いまは似てるけど、すこし……違う………?」
が喉を押さえて、顔をしかめる。痛むのだろう。
「無理して話さなくていい」
サザはの唇に人差し指を立てる。じっとサザを見つめる瞳は、月の光で輝いているようだった。
を不憫に思う気持ちは確かだ。けれど、それだけではないのだ。の傍にいると荒む心が穏やかになるのを感じるし、彼女の歌をもっと聞いていたいと思う。何よりも、宝石のようにただ反射するだけの無機質な瞳に、己を映してほしいと願ってやまない。
「………」
結ばれたの唇を、指の腹でなぞる。くす、とが小さく笑った。
「くすぐった──」
小さな声を呑み込むように、サザは唇を重ねた。びく、と震えた身体が途端に強張るのがわかった。
唇が離れてなお、固まったままのの手を握る。
「そろそろ戻ろう」
うんともすんとも言わないが、手を握り返してくる。
冷静ぶってみても、サザの頬の赤みが手にした灯りのせいではないということは、恐らくきっとにもバレているのだろう。愛おしいという感情が、伝わってしまっているのと同じように。