ルフレが開けた扉を押さえたままであることに気づいて、は慌てて室内に身を滑り込ませる。「ありがとう、ルフレさん」と小さく頭を下げると、何のことかわからないというように、ルフレが瞳を瞬く。そのくらい自然なことだったらしい。

「えっと、扉を開けてくれたから」
「ああ、そんなこと。気にしなくていいのに」

 ルフレが笑う。
 は何だか恥ずかしくなって、視線をわずかに下げた。自警団ではこんなふうに気を遣われることがないため、ルフレのやさしさには戸惑いを覚える。
 こう言っては何だが、クロムには絶対にできないきめ細やかな気遣いなのだ。静かに扉を閉めるルフレの横顔を、は盗み見るように窺う。記憶を持たず、素性もわからない。その上行き倒れだなんて怪しいにもほどがある、と初めこそは思っていた。

「ん? どうかしたかい?」

 の視線に気づいて、ルフレが首を傾げた。

「……ううん、何でもない」

 ルフレは物腰も口調も柔らかい。クロムのような粗野さも、フレデリクのような威圧感もない。だからと言って非力なわけでもなく、ルフレの手には分厚い戦術書が抱えられている。
 それじゃあ、と軽く手を振って去るルフレの後ろ姿を、はぼんやりと見送った。



 昔から、家で編み物をしたりするよりも、外を駆け回るほうが好きだった。いつからか剣を振り回すばかりになって、自警団に所属するまでになった。
 リズやスミアのような可愛げもないが、自警団の皆に女性扱いされるわけがない。むしろ、それが当然で然るべきなのだ。だからこそ、ルフレのやさしさには違和感を覚えてしまう。

「そういや、この間クロムとルフレを盛り場に誘ったんだがな」

 女性扱いされないと、こういった下品な話もあけすけに振られるものだ。慣れてはいるものの、いい気はしない。
 は眉をひそめてガイアを見た。その視線に気づきながら、ガイアがその口を閉じることはない。むしろ、ニヤニヤと揶揄うような笑みを浮かべて、を見返してくる。

「ルフレの奴、行くなら二人だけでどうぞ、だと。ああいう真面目な奴は、損をするぜ」
「そもそも誘う相手が間違ってると思うけど。クロムさまは、あれで一応王子殿下なんだよ? ルフレさんだって、もしも結婚でもしてたらどうするの」
「はあ? 結婚~?」

 ガイアが素っ頓狂な声をあげる。そうして「ないない。あいつが所帯持ちとは到底思えんな」と、大袈裟な身振りで手を振って否定する。

「そうかな? 忘れてしまっているだけで、大切な人はいたかもしれないでしょ」
「ま、そいつはそうかもしれないな」

 切れ長の瞳を細めて、ガイアが頷く。

「だが、結婚はないと思うぜ。指輪もしてないだろ?」
「無くしちゃったのかも……それか、倒れている間に盗まれちゃったとか」
「甘いな。普段指輪をしていたなら、そこだけ日焼けしていなかったりするもんだ。というかお前、ルフレに結婚していて欲しいのか?」
「……そういうわけじゃ」
「へーえ?」

 意味ありげにガイアに顔を覗き込まれ、は視線を逸らした。
 あんなふうに自然に女性にやさしくするのだから、そういう経験が豊富──とまではいかなくとも、あるということだ。

「だって、ルフレさんって慣れてるでしょ?」
「慣れてる?」
「女性の扱いっていうか」

 ガイアが「ほう?」と、相槌を打ちながら、火にかけた鍋に食材を入れていく。もまた、切り終えた食材を鍋に放った。

「そうかそうか、は女扱いして欲しかったのか」
「へ?」

 ガイアの手が鍋を飛び越えて、の頬に触れた。「な、何」と、動揺するの唇に、ガイアの人差し指が添えられる。
 ぱち、と火が爆ぜる。

「お前の作る飯が一番好きだ」
「そうだね。僕もの作る料理が好きだな」

 ガイアの声に被さるように、の背後から声が降った。は飛び退くように身を引いて、慌てて振り返った。見上げたルフレの顔はいつものように穏やかなものだったが、その視線は射抜くようにガイアに向けられている。

「ガイア、席を外してくれるかな?」
「……はいはい」

 そう言われることをあらかじめ知っていたかのように、スッとガイアが立ち上がる。ぽん、と去り際にの頭をガイアの手が叩いていく。

「ガイアと仲がいいんだね」

 そう言いながらルフレが座ったのは、のすぐ隣だった。
 何故だかその顔を見ることができなくて、はぐつぐつと煮立ってきた鍋に視線を注ぐ。「料理当番を、よく二人でやるからかな?」と、答えた声は、上擦って不格好だった。

 ルフレの料理は鋼の味がすると、すこぶる不評だ。
 対して菓子まで手作りしてしまうガイアは器用で、は元々料理好きだ。得手不得手を考慮した結果、料理はとガイアに任されることが多かった。必然的に話をする機会は増えるのだが、特別仲良くなれたような気はしていない。

「そうか……うん、そうだったね」
「ルフレさん?」

 ルフレの声音がどこか沈んでいたので、は首を傾げながら振り向いた。

「ルフレさん、どうしたの?」

 すこし俯いたルフレの横顔は、憂いを帯びてみえた。
 は不安になって、眉尻を下げる。何か心配事があるのだろうか。そもそも何故ガイアに席を外させたのだろう、に何か大事な話があるのだろうか。

 そんなふうに気がそぞろだったせいか、鍋に調味料を振り入れる際に、指先が鍋の縁にほんのわずかに触れてしまった。

「っ」
!」

 ルフレが慌てての手を掴んだ。「あ、だ、だいじょ」大丈夫だと言い切る前に、の指先が側にあった水桶に浸される。冷たさが広がっていく。

「平気だよ、このくらい。何とも……」
は女の子なんだよ? 普段の怪我だって、跡になったどうするんだい」

 自警団の一員なのだから、は怪我には慣れている。傷跡が残るくらい、何てことないと思っているのだが、ルフレは違うらしい。
 この指だって、火傷のうちに入らない程度だ。

「そんなの、ルフレさんが気にすることないよ」
「気にするさ」

 ルフレが桶からの手を引き揚げた。水分を丁寧に拭って、冷えた指先を温めるようにルフレの手が包み込む。
 は手元から、ルフレの顔へと視線を移した。

「僕が気にするのは、おかしい?」

 ルフレに問われ、は答えに窮する。
 何らおかしいことはないような気も、違和感が拭えないような気もする。

 しかし、軍師として普段から皆の怪我には目を配っているし、心やさしいルフレである。のことだけを気にかけているわけではない。そう思えば、不思議なことでもないかも知れない。

「おかしくは、ない……かな」

 確信を持てないまま、は首を捻りながら答える。ふ、とルフレが笑みをこぼした。

「それより、僕にも何か手伝えることはあるかい?」
「えっ! い、いや……ルフレさんは、お皿とか用意してくれると助かるかな」
「わかったよ」

 ルフレがの言う通りに動いてくれる。「苦手を克服する必要もあるかな……?」と、食器を手にしたルフレが、真剣な顔で呟いていた。

 普段料理をしないルフレが、の手元を覗き込んでくる。
 は何だか落ち着かない気持ちなって、できあがった料理はいつもよりすこし味が濃くなってしまった。

「へえ? ほー? ふーん? ルフレと一緒だと調子が狂うわけか」

 ニヤニヤと揶揄うガイアには返事のひとつもしてやらなかった。




、怪我の具合はどうだ」

 外から声もかけずに、天幕に入ってくるクロムには少々呆れるが、がそれを指摘することはなかった。背後に続くフレデリクの視線が恐ろしかったこともあるが、もう慣れてしまったからだ。

「もう何ともありません。できれば、前線に戻して欲しいんですが……」
「それはルフレに言ってくれ。あいつは過保護でかなわん」
「過保護……? わたしに対して?」

 コホン、とフレデリクがわざとらしく咳払いをする。失言だったのか、クロムが気まずげな顔をして「い、いや、忘れてくれ」と、焦った様子で告げた。

「……まあ、大事ないのならよかった。お前は自警団でも重要な戦力だからな」
「クロムさまにそう言っていただけて光栄です」

 イーリス王家の剣術を極めるクロムの言葉は、素直に嬉しい。

、僕だけど入ってもいいかい?」

 入室前に確認をとるところが、クロムとは大違いだ。そう思ったのがの顔に出ていたのか、クロムが「すまん」と小さな声で告げた。

「ルフレさん、ちょっと待って。クロムさま、わざわざありがとうございます」
「ああ、俺たちはもう出よう」

 クロムたちと入れ違いになって、ルフレが入ってくる。天幕はそれほど広くはないので、さすがに大の男が三人も揃っては暑苦しいことこの上ないのだ。
 の傍に座ったルフレが、恭しい仕草での左腕をとった。
 先の戦いで、は左腕に浅くはない怪我を負ったが、今では傷も残っていない。ルフレの指先が、傷のない二の腕を撫でるように触れる。

「あの、ルフレさん……」

 まじまじと腕を見つめられて、は狼狽える。

「ああ、ごめん。不躾だったね」
「ううん、構わないけど」

 はゆるく首を横に振った。ルフレの手が、ゆっくりと離れていく。
 思い詰めたような顔をして「僕が前に言ったことを覚えている?」と、ルフレが呟くように言った。前に、と言われてもピンとこなくて、は困惑する。

「君が傷つくところは、見たくない」
「だ、だからって、いつまでもこんな……みんなが戦っているのに」
「うん。そうだね、わかってる。わかってるんだ」

 これじゃあ軍師失格だ、とルフレが自嘲の笑みをこぼす。
 は慌てて「そんなことない!」と否定するが、ルフレの表情はすこしも晴れない。何だかまで気持ちが沈んできて、しゅんと肩を落とした。
 はは、とルフレが力なく笑う。

「どうしてが泣きそうな顔をするんだい」
「わ、わからないけど、ルフレさんが悲しそうな顔をするとわたしも悲しい」

 きょとんと目を丸くしたのちに、ルフレが小さく吹きだした。笑われる理由はよくわからなかったが、悲しい顔をされるよりはよほどいい。



 ルフレが噛み締めるように名を呼ぶので、はくすぐったいような照れ臭いような気がして、視線を落とす。
 ふいに、ルフレの手がの手を握った。

「大事なことだから、もう一度言うね」
「え? あ、うん……」
「僕は、好きな女の子が傷つくところなんて、見たくないんだ。だから、君を前線に戻すことを躊躇ってしまう」

 はぽかんとルフレを見つめる。

「この手が、僕のために料理を作るだけだったらどんなにいいか」

 そう言って、ルフレが愛おしげに撫でるの手は、剣を握るせいでタコはあるし潰れた肉刺もある。
 恥ずかしながら、女性らしさの欠片もない。

「……ルフレさん」
「ん?」
「不意打ちはずるいよ~」

 は真っ赤な顔を背ける。「これも策略のひとつだよ」なんて、本気とも冗談ともつかない言葉を贈らないで欲しい。どっちにしろ、はルフレの手のひらの上で転がされている。

落ちゆく先は君の腕の中

(好きって言わせる算段は整っている)