掴んだ手首の細さに驚いて、マシューは思わず手を離してしまう。もの言いたげな瞳がマシューを見上げて、けれど何も言わないまま、が俯いて表情を隠す。
行くな、と言いたかった。若様の、他の誰の元へも行ってほしくない。
マシューの思いは明確だったが、言葉にできずに口ごもる。「マシュー」と、呟くように落ちた声は静かだが、震えを持っていた。戸惑いや躊躇いが含まれたその声音に、マシューは耳を塞ぎたくなる。噛みしめられたの唇は、続く言葉をいくらでも用意しているはずなのに、開く気配がない。
こんなふうに、迷わせているのは、マシューだ。けれども、マシュー自身も迷っている。
おもむろに持ち上げられたの手が、マシューの手を握った。の顔は伏せられたままで、相変わらずどんな表情をしているのか窺えない。しかし、見えなくても容易く想像はつく気がした。マシューはもう長い間ずっとを見てきた。
ケチな盗賊と名乗ったキアランの内乱の折から、オスティアの密偵としてヘクトルに付き従った際まで、思えばずいぶん長い付き合いになる。色んな顔を見てきたが、いつしか彼女は表情を繕うことが上手になって、今だってきっとそれほど感情は表れていないのだろう。
良くも悪くも、それが軍師なのだ。
フェレ軍師を立派に務め上げ、リキアどころかエレブ大陸を救った彼女は、いまや見習い軍師などではない。汚い仕事もやってのけ、いつどこで死ぬかもわからないような、ただの密偵が引き留められるような人ではない。
マシューは理解している。自分の立場も、の立場も、よく理解している。
「……狡い人ですね」
が囁くように、吐息交じりに呟いた。マシューは何も言わなかった。
ふう、ともはあ、ともつかぬため息を漏らして、がようやく顔を上げた。泣き出す一歩手前みたいな顔をして、唇を笑みのかたちに変える。
「ここは戦場じゃないのに、わたしの指示が必要ですか?」
握ったマシューの手を引き寄せる力はか弱い。マシューでなくたって、誰でもその手を振りほどくことができるような、頼りない力だった。
迷っているのは、マシューだけなのかもしれなかった。
は、と自嘲の笑みが漏れる。本音を隠して軽口ばかりを叩いてきたせいか、本心を告げることに臆病になっているのかもしれない。
マシューは手を握り返す。引き寄せられたのはほんの初めだけで、マシューは自分から距離を詰めた。
「」
マシューはようやっと口を開いた。「はい」と、が答えて、真摯な視線がマシューを見上げる。
が望む言葉をマシューは知っている。彼女ほどではないにしろ、人心掌握は得意なほうであるし、感情の機微にも聡い。衝動のままにそれを口にすることができないのは、の言う通りマシューが狡いからにほかならない。
歳を重ねたことを言いわけに大人ぶった顔をして、本当はただ怖いだけだ。後ろ暗いことばかりをして、これからだって汚れ役を買って出る自分が、名軍師に触れることが許されるのだろうか──誰に許しを請うわけでもなく、この手で汚すことが何よりマシューは怖いのだ。
の視線はすこしもぶれない。いつだって、こうやって真っ直ぐに瞳を向けてくるから、マシューは逸らすことができない。
「オスティアに来てくれ。若様のためじゃなく、おれのために」
泣き出しそうな顔が歪んで、が瞼を下ろす。伏した睫毛に涙の粒が浮かんで落ちた。泣き顔を見るのは初めてだった。
はい、と震える声が答えた。
マシューは頬を伝う涙を指先で拭って、手のひらを頬に寄せる。涙に潤む瞳が上目遣いにマシューを見て、すぐに伏せられる。しとりと濡れた睫毛に誘われるように、マシューは瞼に口付けを落とした。
「すきだ」
たったそれだけを伝えるのにも、馬鹿みたいに時間をかけてしまった。マシューはこの一年、がどこで何をしていたのか知らない。ネルガルの野望を阻止した後に姿を消したが、フェレに足を運んでくれたおかげで会うことができるだなんて、密偵の名が泣いている。
「そろそろ行かないといけませんね」
が目尻を真白のハンカチで押さえた。
晴れの日に相応しい格好をしたに対して、マシューはいつもと変わりない外套を纏っている。エリウッドの即位式に出席するわけではないのだから当たり前なのだが、マシューは途端に気後れしたような心地がした。
すこしだけ湿っぽさを残した目元を細めて、がくすりと笑った。繋いだ手に指を絡められる。
「必ず、迎えに来てくださいね」
「当たり前だろ。そっちこそ、いきなり行方くらまさないでくれよ」
マシューもまた、小さく笑い返す。名残惜しい気持ちはやまやまだが、時間切れである。
エリウッドが近づく気配を感じて、マシューは「また後で」との耳元に声を落として、さっと姿を消す。程なくして正装したエリウッドが駆けてくるのが見えた。
「それで、は今までどこに居たんだ?」
エリウッドの即位式を見届けて、オスティアに向かう馬車に揺られる中、マシューはの顔を覗き込んだ。マシューとて彼女の行方を探さなかったわけではない。ただ、ウーゼルを亡くしたばかりのオスティアも、ネルガルの企みに利用されたリキア諸侯も混乱している中では、マシューもばかりに時間を割くことができずに足取りを掴めずに終わった。
まあるく見開いた目をぱちりと瞬いて、が悪戯っぽく微笑んだ。
「秘密です」
「へぇ、そうくるか。密偵の本気を舐めると痛い目見るぜ?」
「きゃっ……!」
細い手首を容易く捕らえて、軽く押さえ付ける。非力なでは振りほどくことはできないだろう。
「口を割らせる方法ならいくらでもあるからな」
「いつになく、悪役っぽい台詞ですね」
言葉だけは驚いたふうにして、が可笑しそうにくすくすと笑う。
あまりに余裕ぶった態度なので、マシューはわずかばかりに焦燥感を覚える。軍師のには、ほとんど手の内は知られていると言っても過言ではない。マシューを見上げる瞳には恐れの一つもない。
──心を開いた覚えはなかったのだ。
それなのに、彼女はいつだって信頼を寄せて、一度だってマシューを疑うような真似はしなかった。マシューが盗賊ではないことを見抜いていたし、オスティアの密偵だと知っても責めることもしない。そして、エリウッドの軍にはマシューよりも優れた斥候も手練れの暗殺者もいたのに、が頼りにするのはマシューだった。
じっと見つめ合い、先に視線を逸らしたのはマシューだった。ただすこし身動きを取れなくしているだけなのに、ひどく悪いことをしているような気になってくる。を痛い目に合わせる気など更々ないが、何だか胸が痛む。
「……すまん。悪ふざけが過ぎたな」
マシューはぱっと手を離して、の手首が赤くなっていないか確認して、ほっと息を吐く。
「マシュー」
名を呼ばれて、マシューは視線を上げる。
がわずかに身を乗り出して、近づくのがわかった。マシューは反射的に身構えるが、軽く唇が触れるだけで、あっさりとその身体は離れていく。
「時間はいくらでもあります。密偵の本気とやら、是非見せてくださいね」
ドキリと胸が跳ねるとほぼ同時に、ガタン、と小石か何かを踏んだのか、馬車が揺れる。小さな悲鳴を上げて、ぎゅっとがマシューに抱きついた。
「……す、すみません」
「いや……大丈夫か?」
「はい……」
互いに、そそくさと身体を離して、席に座りなおす。自分から口づけまでしたくせに、ふいに身体が触れ合っただけで顔を赤くするなんて──ちら、との横顔を盗み見る己の頬もまた、かすかに熱を持っているのでマシューは指摘しなかった。
それからオスティアに着くまで、ロクに会話を交わさなかったが、それでも肩は触れ合っていたし手は重なっていた。