の髪をひっ掴み、見下ろす冷たい瞳は敵意に満ちていた。「エルレーン、」と震えて引きつった声が、戦慄く唇から漏れる。
 痛みに顔を歪めながらも、はぐっと眦に力を込めて、エルレーンを睨むように見た。

「いけません」

 ウェンデルの不在を任されていたはずの、エルレーンとマリクが争うなんて言語道断である。ウェンデルが知れば、深く心を痛めるだろう。
 しかし、の言葉になど耳を貸してはくれなかった。
 ふんと鼻で笑い飛ばすと、エルレーンがを突き飛ばした。冷たい床に打ち付けられた身が痛み、すぐには立ち上がることができなかった。

「俺がマリクに勝つ様を、そこで見ているがいい」

 エルレーンが非情に告げる。もはや、エルレーンはを一瞥すらしなかった。

! エルレーン、なんてことを……」
「黙れ」

 駆け寄ろうとしたマリクを、エルレーンの冷たい声が制止する。まるで兄弟弟子に向ける声音でも、視線ではなかった。ウェンデルのもとで、同じように魔道を学び、修行してきた二人──
 は、マリクのこともエルレーンのことも、理解しているつもりだった。

 とりわけ、マリクとは気が合い、よく一緒に過ごした。時に励まし合い、時にぶつかり合い、時に互いの涙を拭ったこともある。にとってマリクは親友だった。エルレーンだって、大事な友である。
 は座り込んだまま、顔を上げる。

「貴様のエクスカリバーが勝つか、俺のトロンが勝つか……さあ、勝負しろ!」

 もう、エルレーンにの声は届かない。視線を巡らせた先に、神殿に入ってくる見慣れぬ一行のなかに、ウェンデルの姿を見つける。そして、先頭に立つ鮮やかな青い髪に目を奪われた。
 マリクがいつも話してくれたアリティアの幼馴染のことが、脳裏をよぎる。

「先生、」

 はぎゅっと目を閉じて涙を堪えると、杖を手にして立ち上がった。



「だめっ、エルレーン!」

 エルレーンの持つ魔道書がぽわりと光るのが見えた。は思わず叫び、杖をぎゅうと握りしめた。癒しの杖とは違い、使い慣れないその杖に、祈りとともに魔力を注ぎ込む。
 マリクの視線がエルレーンを飛び越えて、を捉える。

「マリク……!」

 エルレーンからトロンが放たれる。雷鳴を轟かせながら、すさまじい勢いで電撃がマリクを襲った。さすがは高位の雷魔法である。いくら魔法に耐性があったとしても、そう何撃も耐えられるわけがない。
 は眩い光に目を閉じる。次に目を開けた時、マリクの姿はそこになかった。

「貴様っ、小賢しい真似を!」

 激昂したエルレーンが、に掴みかかる。腕を捻りあげられ、の手からカランと杖が落ちた。

「ワープの杖……」

 エルレーンがぎり、と歯噛みする。

「マリクの前に、貴様を片付ける。才能がありながら魔道を投げうち、杖しか扱えぬ臆病者め」
「……っ」

 何も反論できなかった。は人を傷つけることを恐れて、魔道書を取らなかったのだ。けれど、ウェンデルはそれを咎めることはなかったし、の意思を尊重してくれた。

「貴様だけでなく、先生までもマリクを選ぶのか」

 エルレーンの顔が苦しげに歪む。ウェンデルの弟子の中でも、抜きん出て二人は優秀で、比べられることも多かった。はどちらかを選んだつもりなど毛頭ないし、それはウェンデルだって同じことだろう。
 ぐ、と腕を掴む手に力がこもり、は痛みに眉をしかめる。

 エルレーンが片手で器用に魔道書を開く。は渾身の力でエルレーンを突き飛ばし、逃げ出した。特別足が速いというわけではなかったが、トロンが迫ることはなかった。


 壁に背を預けて、は荒い呼吸を整える。
 急いでいたし、焦りもあったため、狙った場所へ送れたかはわからないが、ワープは確かに発動していた。マリクが彼らと合流できたのならば、きっと心配はいらない。
 あの頭に血が上ったエルレーンも、ウェンデルならば諭すことができる。

 マリクの元へ行きたいが、エルレーンの息がかかるカダイン兵がいて、身動きの取りようがない。あちこちに、と同じように脅されたシスターの姿が見える。

 腰元に括り付けていたライブの杖を握り、は気持ちを落ち着ける。大丈夫、と心の中で何度も自分に言い聞かせるが、指先の震えは収まりそうになかった。
 近づく気配を感じて、はっと顔を上げる。
 鈍色がギラつく。

「あ……」

 間抜けに目を見開く己の顔が、抜き身に反射して写っていた。鋭い切っ先が向けられていることに気づいても、身体は動いてくれなかった。

「クリス! シスターは傷つけちゃだめだ!」

 声と同時に、石のように固まる身体を抱き寄せられる。途端に緊張が解けて、脚の力が抜けてしまう。思わず、しがみついてしまったが、相手は嫌な顔一つせずにを支えてくれる。

「大丈夫かい?」

 やさしく顔を覗き込まれ、は声もなく頷いた。

「マリクから聞いたんだ。シスターは脅されて、仕方なく戦場にいるだけ……傷つけることは避けたい」
「はっ……すみません、マルス様。配慮が足りませんでした」

 クリスと呼ばれた騎士が、剣を納めて頭を下げる。
 は恐る恐る視線を上げ、近くにある髪と同じ青い瞳を見つめた。カダインを出たことのないは、初めて彼の姿を目にする。

「マルス王子」

 マリクの話を聞いて、何度も想像したマルス本人が、すぐそこにいるのが不思議だった。唇が自然と動いて、その名を紡いだ。
 不思議そうに瞳を瞬いたマルスが、すぐに破顔してやさしく目を細めた。

「きみがだね。マリクを助けてくれてありがとう」
「そ、そんな、とんでもございません! エルレーンを止められず、申し訳ありません」

 はマルスとの距離の近さに気づいて、慌てて身を引いた。ふらついたの身体を、なおもマルスの手が支えてくれる。

「も、申し訳ございません」
「大丈夫? 無理はしないで」
「いえ、 わたしは大事ありません」

 そう答えるが、マルスの視線が気遣わしげに向けられる。そうして「赤くなっているね」と、の手首をそうっとマルスの指先が撫でた。エルレーンに掴まれた箇所だった。

「ご心配には及びません」

 頷いたマルスが、ようやくを解放する。変に肩に力が入っていたらしく、は無意識にほっと息をついた。

……よかった、無事だったんだね」

 マリクが駆け寄ってくる。その後ろにはウェンデルの姿も見え、は安堵に瞳を潤ませた。

「マリクこそ、ご無事でよかったです。先生、エルレーンをお願いします」
「ああ、わかっておる」

 ウェンデルの手が、杖を握るの手を包み込んだ。

「おまえがマリクを救ったのだ。良い杖の使い手になったな、

 の瞳から涙が落ちる。
 ウェンデルがこうして認めてくれるからこそ、は己の選択が間違いではないと思えるのだ。







 ウェンデルの一喝により、エルレーンは正気を取り戻したようだった。
 マルスは言葉通り、シスターを誰一人傷つけることなく、この戦いを制した。やさしい人柄なのだと、この短い時間でもよくわかる。そんな人が野心に駆られて、戦争を引き起こすわけがない──と、は確信した。

「マルス王子、こちらをお持ちください。わたしたちを助けてくださったお礼です」

 買い物に役立つシルバーカードを差し出す。「ありがとう」と、マルスが微笑んでそれを受け取った。指先が、ほんの僅かに触れ合う。

「あれ……まだ手首のところ、少し赤いね。痛まないかい?」
「あっ、」

 引っ込めようとした手をふいに取られる。怪我のうちにも入らないのですっかり忘れていたが、触れられるとぴりっと痛みが走った。

「ごめん! 痛かった?」
「い、いえ、大丈夫です」

 は慌てて首を振った。マルスの手が離れて行く気配がないので、は不思議にマルスを見上げた。
 する、と労わるように指先が赤くなった部分をなぞった。

「肌が白いから、赤みが目立つね。痛々しいな……」

 呟くマルスが憂げに目を伏せる。は何も言えずに、青い瞳にかかる睫毛を見つめる。瞼が押し上げられて、視線がぶつかった。
 は小さく息を呑む。
 あまりに不躾な視線だったのでは、と慌てて瞼を下ろす。マルスの手はまだ触れたままだ。緊張が遅れてやってきて、何か言わなければと思うほどに言葉がひとつも出てこない。まごつくを、マルスが笑うことはなかった。



 名を呼ばれ、俯きそうになった顔を上げる。

「もっと早くに助けてあげたかった。怖い思いをさせてしまったね」
「いえ! 十分過ぎます。勿体ないお言葉にございます」
「……そんなふうに畏まられると、すこし寂しいな」

 マルスが眉尻を下げて、苦笑を零す。
 けれども、は一介のシスターで、マルスはアリティアの王子殿下である。はますます戸惑って、思わずマリクの姿を探す。

 ふいに、マルスの手がの指先を握りしめた。

「マリクからきみの話を聞いていたからかな。何だか、初めて会ったように思えないんだ」

 は驚いて、目を丸くしてマルスの顔を見つめた。マルスがすこし照れ臭そうに微笑む。

「ぼくはずっと、きみに会ってみたいと思ってたんだよ」
「あの、畏れながら……わたしもです」

 よかった、とマルスが嬉しそうに笑う。
 頬に熱が集まるのがわかって、恥ずかしくてたまらないのに、はその笑みから目が離せなかった。



も一緒に来てくれるんだね」
「でも、わたしなんてお役に立てるかどうか」

 マリクがにこりと笑うのに対し、は顔を曇らせる。杖の使い手は、もう十分間に合っているのではないだろうか。

「傍にいてくれるだけで、心強いよ。……多分、マルス様も同じように思ってるんじゃないかな」
「そ、そんなこと」
「そうかな? ぼくには、マルス様がきみをとても気にかけているように見えたよ」
「………」

 はちら、とマルスを見やる。隣には、美しく強いタリスの王女が並ぶ。
 アリティアの貴族であるマリクも初めて会ったときは上品な様に見惚れたものだが、マリクはまるでお伽話の中から出てきたような──思い描く王子そのもののようである。マルスとシーダは並び立つだけで、絵画のようだ。

「シーダ様との婚約の噂は、本当に噂だけだったし、にも可能性はあると思うよ」
「可能性? ま、待ってください。マリク、わたしはマルス王子とどうこうなんて……!」

 マリクの手が目元に触れてから、頬に伸びる。

「そんな真っ赤な顔で言っても、説得力がないよ」

 むっと唇を尖らせる。けれども、反論できずには口ごもる。
 先程マルスの触れた指先が、痺れるように熱いような気がした。それなのに、マルスの微笑みから目を背けることが、どうしてもできない。

、林檎のようだよ」

 マリクのからかいに、はやはり答える言葉を持たなかった。

青いともし火

(触れたら火傷してしまうかしら)