ぷくり、と血が浮き出る。
ライは刹那にしまったと思ったが、鋭い爪は頬を掠め、そのまま勢いを止められずに右手は壁にややのめり込むようにして叩きつけられた。息を呑んだはそれでも、少しも悪びれた様子を見せない。彼女の性格は、嫌になるくらいによく知っている。
不機嫌そうに口を閉ざしたを、ライはじっと見下した。滑らかな肌に走るきれいな三本線から、鮮血が伝い落ちる。つい「ごめん」と言いかけるが、ライは唇を結んでそれを言葉にしなかった。負けじと睨み返してくるの瞳が、一瞬だけ泣き出しそうに揺らいだ気がした。
「二度とそんな言葉を口にするな」
隊長格のライが凄めば少しくらい怯んでもいいものだが、が気圧される様子もなく、全身の毛を逆立てて威嚇してくる。その怒りを纏ったまま、がひどく乱暴な仕草で頬を手の甲で拭う。
じわ、と傷口からすぐに血が滲み出て、思った以上に深く傷つけてしまったようだった。
大丈夫かと問うて、その頬に触れたい。
ライは目を閉じて、その衝動を押さえ付けた。今回ばかりは甘い顔をしてはいけない。刺々しい殺気が消えたことに気づいて、ライは瞳を開けた。の白い頬が痛々しく赤く染まっている。ライを見つめる瞳はやはり睨むように眦を吊り上げているが、逆立っていた毛並みは治まっている。
「わたしは謝らない」
梃子でも動かぬ強固な意志だ、と言わんばかりである。がふいっと顔を背けて、踵を返す。ぴん、と長い尾が緊張していた。
はあ、とライは重いため息を吐いた。
実際に手を上げるつもりはなく、威嚇のつもりだったのだ。誰が好き好んで恋人の顔に傷を作ると言うのだ。ライはもう一度ため息を吐いて、己の手のひらを見つめる。
スクリミルのことやキサとリィレのことなど、ライが考えねばならぬことは多いが、まさかまでもが悩みの種になるとは──再びため息が漏れそうになった唇を結ぶ。
デイン=クリミア戦争終結後、ガリアで帰りを待っていた恋人にろくに構いもせず、クリミア復興のためにとんぼ返りした記憶が蘇る。忙しさを理由にして、まともに話さなかったつけが回ってきたのだろうか。
「きゃあっ」と可愛らしい悲鳴とは裏腹に、野太い声が聞こえてライはげんなりした。
思わず身を潜めて様子を窺えば、想像通りにガタイのいい獣牙族の姿が見えた。その逞しい背に隠れてほとんど見えないが、のんびりと尾が揺れている。キサと話しているのはリィレでもレテでもない、だ。
「やだちょっと、何よその傷! ちゃんと手当てしたの? ベオクの杖ならすぐ治るんだから、頼みなさいよ」
どきりとしたのか、ずきりとしたのか、はっきりわからなかった。ライの胸が疼く。
「いいの」
「はあっ? 顔に傷なんて作って、嫁の貰い手がなくなるわよ」
「その時は、責任取ってもらうわ」
「……まさか、」
キサの声が動揺したように震えて、尾がざわっと逆毛立つ。
との距離を詰めて、キサが顎を掴んだ。一見すると、男女の仲のように見えなくもない。先ほどとは違う理由でライの胸がざわめいた。
「ライ隊長が? あんたね、いったい何を言って怒らせたのよ」
「アイクさんの悪口」
「……呆れた。愛想つかされたって知らないわよ」
妙に女性めいた仕草で、キサが肩をすくめる。「その時は慰めてよ」と、が冗談めかして笑った。
「一緒にいるのに、いてもいなくても変わらないみたいな態度取られるより、怒ってくれたほうがまし」
キサの背中越しに、すこしだけの姿が見えた。
頬の三本線は、流血こそしていないが、十分に痛々しい。そこに指を添えて、が目を伏せて自嘲するように笑みをこぼした。キサの大きな手が、たおやかな仕草をもっての肩を撫でた。
「……ライ隊長は忙しいのよ」
「知ってる」
そう言って、笑ったの顔は泣き顔にも似ていた。
声をかけることができないのは、自分のあまりの不甲斐なさに正直打ちのめされたからである。ため息を呑み込んで、ライはその場にうずくまった。情けない姿を見られたくなくて、けれどそこから逃げ出さなかったのは、本当は気づいてほしいからなのかもしれなかった。
嫌になるくらい知っている彼女の性格を、もっとよく考えるべきだった。
攻撃的で短慮だが、理由もなく悪意をぶつける性質ではない。何より、ライにとって大事なものを傷つけようなどと、そんな真似をするはずがないのだ。
「なぜ隠れているの?」
ふっ、と翳ると同時に、頭上から声が降ってくる。
「バレてたか」と苦々しく呟いて、ライは立ち上がった。
「……いつからそこにいたの」
がすこしだけ不審そうに眉をひそめた。恐らくほとんど初めから、と言うのも憚られ、ライはきまり悪く苦笑した。ますますが眉間に皺を寄せる。
不穏な気配に気づいて、ライは苦笑を深めた。
「ごめん」
言いながら、ライはの頬に指を伸ばした。まだ痛むのだろう、その傷に触れるとが顔を歪めた。ぴくりと揺れた耳が、しょげるように伏せられる。
「わたしは、謝らない」
の瞳が睨むようにライを見上げる。けれども、耳にも尾にも力がない。
「オレの負けだよ」
「……いつもそうでしょ。ライが折れて、丸く収まる。悪いけど、今回ばかりはそう簡単にはいかないわ」
「それは困ったな」
軽く肩をすくめて見せれば、が瞼を伏せて視線を落とした。殺気もないし、敵意もない。
赤みを帯びた三本線にやさしく指を這わせて、それから唇を寄せる。「傷が残らなくったって、責任取るよ」ぺろ、と舐めあげれば、の身体が小さく震えた。
「だから、ミストに治してもらおうな」
ぽん、と頭に手を乗せて、やさしく撫でる。
むっ唇を尖らせて怒った顔は、赤らんだ頬のせいで迫力に欠ける。
「簡単に懐柔できると思わないでよね!」
ふん、とそっぽを向くの背後で嬉しそうに尻尾が揺れていたが、ライは見て見ぬふりをした。
つるりとしたの頬を見て「あら何よ、もう仲直り?」と、キサがにやにやと笑った。そして、すんとの首筋に鼻を近づけて眉をひそめる。
「やだ、ライ隊長の匂いプンプンさせちゃって。当てつけのつもり?」
「おい、距離が近いぞ」
「わっ、ら、ライ」
ぐい、との身体を抱き寄せて、キサから距離を取る。いかに女性らしかろうと、男は男だ。キサが傷ついたふうに胸を押さえ、大きな身体をくねらせる。
ライはの顔を覗き込み、頬を撫でてやる。きれいな三本線は跡形もない。
「いやあ、見せつけないでくださいよぉっ」と、泣き真似をするキサを横目に、ライはため息を吐いた。頬に触れる手がくすぐったいのか、が目を細めて笑みをこぼす。
「大体いいだろ、恋人なんだから匂いくらい付いたって」
「あたしは諦めてません! 好きです隊長」
「あー……悪いけど、オレたち将来を誓い合った仲だから」
諦めろ、とライはすげなく告げて、を抱きしめる腕に力を込めた。鼻を近づけなくたって、互いに同じ匂いがすると知っている。
がすり、と頬を寄せてくるので、ライはふっと小さく笑みをこぼした。
ゆらゆらと揺れる尻尾が絡み合う傍ら、「もう、やってらんない……」と、キサが大きな図体を小さく丸め、恥ずかしそうに退席していった。