叔母であるユウギリの顔には、大きな傷跡がある。それ以外にも古傷は身体中の至るところにあるのだが、それはユウギリの生き様に他ならない。いまなお若々しいユウギリのその昔の姿は、戦場でも見惚れてしまうほどに美しかったという。
国で一番と称される美女だったのだと、そう語る祖父母の顔が寂しげだったことを、はよく覚えている。
血縁者であるにはユウギリの面影がある、と母や本人にさえも言われるが、その美貌や武勇には遠く及ばないことは自分がよく知っている。
幼い頃に暗夜王国へと連れ去られたという、白夜王国第二王子の元へ馳せ参じて早数日が過ぎたが、はいまだに肩身がせまいような心地がしていた。何もかもがユウギリ劣る自覚があるというのに、その叔母本人に「カムイ様のお役に立ちなさい」と激励されるのだからたまったものではない。
薙刀を一振りするだけで、いったい何人の敵兵を葬ることができるのだろうか。そう思ってしまうくらいに、ユウギリの一撃は豪胆である。
手綱を引いて、刃先が掠める寸前に翻る。はらり、と数枚の羽根が舞い落ちて、の愛馬ならぬ愛天馬は怪我を免れたというのに怖気ついてしまった。のいうことを聞いてくれない。
「あらあら、仕様のない」
ユウギリが穏やかな笑みをたたえたまま、困ったように言った。
乗り手であるもまた、当惑する。天馬はいくら腹を蹴ろうとも、ユウギリに向かっていくことをしない。
「来ないのなら、こちらが行くまで」
ははっと息を飲む。
瞬きの間に、ユウギリがすぐそこに迫る。素早く繰り出された薙刀が、今度こそ天馬の雁首を捉えた。ここが戦場だったのならば、の命はもうない。
「参りました」
天馬が首を垂らすと同時に、もまたうなだれた。
ユウギリが薙刀を引いて、ふうとため息にも似た吐息を漏らす。びくっ、と反射的に身体が跳ねて、強張った。
「、顔を上げなさい」
「……はい」
「先が思いやられますわね。誰に似てこれほど気が弱いのやら」
ユウギリの目は天馬に向いていたが、は身を竦ませる。ぶるり、と鼻先を震わせた天馬が力なくに顔を寄せてくる。
鬣を撫でながら、もまた力なく笑った。
気が弱い、とユウギリに称された天馬は、すっかり戦意を喪失してしまって厩舎から出ようとしない。なだめすかしてもすこしも動かないのだから、にはもうなす術がない。
はため息を吐きながら、畳まれた翼にブラシをかける。
「あ、やっぱりここにいたねー。あれ? どうしたの、こんなに萎縮しちゃって」
「ツバキさん……叔母に、手酷くやられてしまってからこうなんです」
「可哀想に、よっぽど怖かったんだねー」
苦笑を漏らしながら、ツバキが天馬の鼻先を撫でる。ブル、と鳴らす鼻すらも弱々しさを感じる。
「……これでは、カムイ様のお役に立つことなんて」
は目を伏せて、小さく呟く。「あらら、まで弱気になっちゃったのー?」と、ツバキが顔を覗き込んでくるので、はわずかに顔を背けた。
あまりに無様で同じ天馬武者として、情けなくて恥ずかしい。
ユウギリのようになりたいのに、まったく及ばない。似ているのはせいぜい顔立ちくらいだ。そもそも、天馬武者ならばユウギリはもちろん、ヒノカやツバキだっているのだから事足りているのだ。皆、よりもよほど優秀だ。
カムイに見限られるのもそう遠くないのでは──
思考が悪いほうへ悪いほうへと沈んでいく。
「ほらー、そんな顔しない」
ツバキの指先が、の両頬を摘んで引っ張る。は何も言えないまま、非難がましい視線をツバキに向けた。
「カムイ様がのこと心配してたよー」
「……うそ」
カムイと言葉を交わしたことなど、初めて顔を合わせた時くらいなものだ。
はマイルームに呼ばれたことすらない。
あまりに信じがたい、とは怪訝に眉をひそめた。しかし、そんなに反して、ツバキからは朗かな笑みが返ってくる。ゆるく頬を掴むだけの指が、皺の寄った眉根をつついた。
「嘘じゃないよー。カムイ様が呼んでる、って伝えに来たんだ。どうせここにいると思ってね」
「………」
「すぐに卑屈になるのは、の悪いところだねー。さ、行っておいで」
ツバキの手がの背を押しやる。
は戸惑いながらも「ありがとう。行ってきます」と、小さく頭を下げてから厩舎を後にした。
カムイの執事に「粗相のないように」と釘を刺され、メイドには危うくお茶をかけられそうになるも、何とかは席に腰を落ち着けることができた。
ぎゅう、と膝の上で拳を作る。
向かいに座るカムイとは、迎え入れてくれた時さえも視線が合った気がしない。
やはり、ツバキの言ったことはうそなのだ。カムイが自分を心配しているだなんて、そんなことがあるわけがない。俯くと、ユウギリと同じ色の髪が目についた。
ユウギリと、自分の本質はまったく違う。は戦闘狂ではない。戦いに歓喜するわけでも、断末魔が聞きたいわけでもない。本当に、似ているところといえば、この見目くらいなものなのだ。
「顔を上げて」
カムイの手が伸ばされて、の頬に触れた。やさしく持ち上げる手に従って、はおもむろに顔を上げる。真紅の瞳がを見つめていたが、その視線はすぐに逸らされてしまう。
「その、なんていうか、ええと……急に呼び出してごめん」
「カムイ様が謝られることなどありません」
そうかな、とカムイがはにかむように言って、に触れていた手を引いて頬を掻いた。その頬が薄らと赤いことに気づいて、は不思議に瞳を瞬く。
「本当は、もっと早くにこうして招きたかったんだけど……」
カムイが言い淀む理由が、にはよくわからなかった。「思ってたより、照れるな」と、ぼそりと呟かれた言葉はの耳に届かなかった。
逸らされていた視線がを捉える。は無意識に背筋を伸ばした。
「緊張しなくてもいいよ。なんて、僕も緊張してるんだけど……」
「え? カムイ様が、何故ですか」
が胡乱な目を向けても、カムイが視線を逸らすことはなかった。じっと、見つめてくる真紅の瞳の中に、怪訝な顔をしたが映り込んでいる。
カムイが口を開いて、小さく息を吸い込んだ。
「……君のことが好きだから」
この上なく真剣な顔をしたカムイの頬も、耳も紅潮している。冗談や揶揄ではないということがすぐにわかって、は言葉を失うと同時に固まった。
「ごめん。驚くよね、ろくに話したこともないのに」
はは、とカムイが自嘲するように笑う。
「でも、初めて見た時から君のことが気になって、つい君を目で追いかけてしまうのに声をかけるのは躊躇って……」
カムイの指先が、するりとの頬を滑る。はいまだに口を動かすことすらできずに、ただじわじわと頬に集まる熱を感じる。
「これが恋なんだって、気づくのに時間がかかった」
真摯な視線に射抜かれて、は一瞬呼吸すらも忘れた気がした。
「? そろそろ、何か言って欲しいな」
「す、すみません! あまりにびっくりしてしまって、だって、まさかカムイ様が」
わたしのことなんて、と言葉が尻つぼみに消えていく。
自慢じゃないが、は天馬騎士として励むばかりで恋愛なんてしたことがない。「初心が過ぎますわ」と、ユウギリには苦言を呈されるほどだ。
「そんなふうに、自分を卑下する必要はないよ。ユウギリと比べることもない」
「……それは、」
「君は、ユウギリには遠く及ばない。でもそれは仕方がないことだ。焦る必要はないと思う」
「……」
いつも、にはユウギリの名がついて回って、ユウギリと比べられた。祖父母が、縁を切って以来顔を合わせていないユウギリの姿を、を通して見ていることに、気づいたのはいつだっただろう。
ユウギリのようになりたかった。けれど、当たり前だけれどなることなど到底できなかった。
初めてユウギリが天馬に乗っている姿を目にしたとき、あまりに美しくてあまりに勇ましくて、は焦がれた。けれど、その憧れがいつの間にか重圧へと変わって、は息苦しさを覚えるようになってしまった。
あの天馬は、間違いなくに似て気が弱いのだ。
──ユウギリと比べることもない。
は目を伏せる。
カムイの言葉が、素直に嬉しい。そんなふうに言ってくれる人は、白夜王国にはいなかった。やさしさが、胸の内に染み込んで広がっていくような心地がした。
「わっ、ごめん! 泣かせるつもりは」
「違います。嬉しいんです、カムイ様にそんなふうに言っていただけて」
は濡れた瞳でカムイを見上げた。
「わたしのことを、お傍に置いていただけるのですか」
ぼやけた視界の中で、カムイが柔らかく笑むのがわかった。
カムイの指が、目尻に滲んだ涙をやさしく拭った。
「こそ、僕の傍にいてくれるの?」
そう問う声音は、すこしだけ揶揄うような響きで、楽しげに弾んでいた。「っそ、そういう意味ではありません!」と、慌てて否定するも、カムイの顔にはなおも嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
恥ずかしさに堪りかねて、は席を立った。
「も、もうお暇させていただきます!」
「あっ、待って! 」
カムイの手がの手首を捕らえる。思いのほか、力が強くて振り解けそうになかった。
「また、部屋に来てくれるかな?」
窺うようにカムイに顔を覗き込まれて、は「お誘いくださるなら」と、喘ぐように答える。ほっと息を吐いたカムイが、破顔した。
掴まれた箇所が燃えるように熱い。カムイの手が、離れる気配はない。