失礼します、と扉から覗いた大柄な姿を認めて、ヘクトルはぐっと眉根を寄せた。
 重鎮たるオズインを頼りにしてはいるが、その小言には辟易している。「サボってねぇぞ」と、ヘクトルはすぐに視線を逸らして答える。息抜きだなんだのと執務室を抜け出していたら、マシューまで使って監視されるようになってしまった。どうせまた仕事をしているのか確認しに来たのだろう、とヘクトルはむすっと唇をへの字に曲げる。

「ヘクトル様……」

 はあ、とオズインがため息を吐いた。
 くすくすと笑う声に気づいて、ヘクトルは顔を上げる。オズインの背後から、ふわっとドレスが舞うようにして躍り出る。
 ヘクトルは思わず、がたりと音を立てて立ち上がった。「」と、唖然としたままその名前が唇からこぼれ落ちた。久しく目にしていなかった幼馴染が、ドレスの裾を摘まんで、申し訳程度の挨拶をして見せる。淡い橙色のドレスはよく似合っていたが、最後に見たときとの差異がありすぎて、なんだかちぐはぐなように感じてしまう。

 黒いベールがかすかに隠した、の泣き顔がヘクトルの脳裏をちらついた。

「急な訪問でごめんなさい」
「いや、それは構わねーけど……おまえ、いいのかよ。まだ喪に服す時期だろ」

 まあ、とが驚いたふうにして、指先を唇に添える。心外だといわんばかりの反応をされ、ヘクトルは戸惑った。
 とは確かに幼馴染なのだが、そこまで仲が良いというわけではなかった。ヘクトルは昔から荒っぽく、歳の近い同性とばかり遊んでいたし、彼女も本を読んだり刺繍をしたりと静かなことを好んだからだ。年は少し離れてしまうけれども、とはウーゼルのほうが馬が合っていたように思う。

 ウーゼルが亡くなったことは、まだ内々にしか知らされていない。近親者だけでしめやかに行われた葬儀に参列したが、ウーゼルと深い関係にあったのだと思われるのは、なんら不思議なことではなかった。

「ヘクトルまでそんなことを言うのね」
「はあ?」
「ウーゼルの婚約者だなんて、誰が言いだしたのかしら?」

 根も葉もない噂よ、とが肩をすくめてみせる。
 ヘクトルでさえも二人を特別な関係だと思っていたのだから、周囲の人間は殊更勘違いしていることだろう。「さあな」と、投げやりに言って、ヘクトルはどかっと椅子に腰を下ろした。

「おいオズイン、今日はもう良いだろ」

 最近は、真面目に仕事をこなしているおかげで、それほど書類の山はできていない。
 ウーゼルの穴は大きすぎて、まだヘクトルには埋められない。ましてや、ヘクトルの立場は表向きには侯弟のままである。兄の跡を継ぐとは、とてもじゃないがすぐには決心できなかった。
 それを責める者はいない。ただ、リキア同盟は未だネルガルによる戦禍の爪痕を残しており、いつまでもウーゼル不在でいられるわけがないことも、ヘクトルはよくわかっている。

 オズインの視線が机の上に向いて、それからヘクトルを捉える。
 元より老け顔だったのに、ウーゼル亡き後はさらに歳を重ねたようにも見える。それはおそらく、頼りにならない己のせいだろう。優秀な兄に甘えて、好き放題していたツケとも言える。

「……わかりました。様に免じて、今日はもう休んでよろしいでしょう」
「よし!」

 ヘクトルはこれまた大きく音を立てて立ち上がる。オズインとが同じように眉をひそめるので、ヘクトルは「悪りぃ」と苦笑いをした。



 白くて細い指先が、持ち上げるティーカップを音を立てずにソーサーへと戻す。対して、ヘクトルが置いたティーカップはかちゃんと鳴った。

「相変わらずガサツなんだから」
「……悪いかよ」

 そういえば、乱暴だの粗野だのとリンも口うるさかったし、軍師にも再三鎧の音に気をつけろと言われていた。女というのは、エリウッドのように細かなところに気がつくほうが、好ましいのだろうか。ヘクトルはちらっとを一瞥する。

「あら、悪いとは言っていないわ」

 確かに言われてはいない。「わたしは、ヘクトルのそういう男っぽいところが、嫌いではないもの」と、が小さく笑った。
 本気で言っているのかも怪しいが、悪い気はしない。

「そうかよ」

 思わず、照れ隠しでぶっきらぼうな物言いになる。しかし、それに気を悪くするほど浅い付き合いではないので、がなおも小さな鈴を転がすように笑い声を漏らす。
 の楽しげな様子に、ヘクトルは内心で安堵する。
 兄の病床に付き添い、最期を看取ったのは、だ。たった一人の肉親で、弟たる己は病気すら知らなかった。知っていたならば、傍に居たのだろうか──けれども、そう考えるたびに親友の顔が思い浮かんで、結局答えは出なかった。

 兄のいなくなったオスティア城に留まり、魔の島へと旅立つヘクトルをはあの時、どんな気持ちで送り出したのだろう。「ご無事で」とが告げた声は震えていたようにも思うが、今となっては不鮮明でよく思い返せない。

「……で、いったい何の用なんだ?」

 事前の連絡もなければ、従者の一人もつけていない。突然の訪問には、それなりの理由があるはずだ。片眉を跳ね上げるようにして見やれば、が瞳を伏せる。

「会いたかったから……では、いけないかしら」
「はあ?」

 が窺うように視線を上げた。ヘクトルは思わず、探るようにを見つめる。
 だが、あいにくヘクトルは言葉の裏を読むことが苦手だし、の真意はわからない。

 しばしの沈黙が落ちる。
 おそらく、彼女は身軽に動ける時期ではない。ヘクトルと同じように、喪に服すべきと周囲は考えているはずだからだ。服一つ取ったって、眉をひそめられることだろう。それだけに、何か特別な事情があってもおかしくはないが、ヘクトルには見当もつかない。

 ふ、とため息とも笑い声とも取れるような、かすかな吐息をが漏らした。

「だって、あなたがやっとオスティアに帰ってきたのに、皆してわたしを家に閉じ込めるのよ。ひどいとは思わない?」
「仕方ねぇだろ。兄上が亡くなって、まだ……」
「ええ、そうね。でもわたしは、あなたのことが気がかりだったわ」

 の手が伸びて、ヘクトルの指先に触れる。「ねぇヘクトル」慈愛に満ちたみたいなやさしげな声が、静かに空気を震わせる。ぎゅ、と握るようにして手が重ねられる。

「おかえりなさい。こんなふうに、ゆっくり話もできなくて……すこし、寂しかった」

 特別親しいとは言えない。しかし、ヘクトルはに特別な感情を抱いている。兄の手前、それを伝えようと思ったことはなかったし、態度に出したつもりもない。もしかしたら、兄にはお見通しだったかもしれないが──

「ヘクトル」

 が長い睫毛を伏せる。

「わたしの前では、泣いてもいいのよ」

 そう言ったの瞳は、もう濡れていた。





「若様、お邪魔しますよ……っと」

 扉から顔を覗かせたマシューが意外そうに目を瞠る。密偵らしく、足音を立てずに近づいて「寝ちまったんですか?」と、苦笑を漏らす。
 ソファの上には、巨体が窮屈そうに横たわっていて、静かな寝息を立てている。膝をついて、その寝顔を眺めていたが顔を上げて、唇の前に人差し指をたてた。マシューが頷き、声をひそめる。

「お迎えが来ていますが、どうします?」
「あら、意外と遅かったわね。でも今日は帰るつもりはないのよねぇ」

 ヘクトルの髪をやさしく撫でながら、が悪戯っぽく微笑む。その表情にすこしだけ影をつくって、手を離して立ち上がる。

「てっきり、エリウッドみたいに伴侶を見つけてくるんだと思っていたわ」
「若様が? いやー、それはないでしょう」
「そうかしら?」

 が小首を傾げる。ヘクトルの気持ちを知っているマシューには、何故がそう思うのかわからなかった。

「ほら、キアランの公女の方と親しくしていたでしょう。わたしもあんなふうに、肩を並べられたら……と、羨ましかったわ」
「ああ、リン様ですか。でもそういう雰囲気はなかったと思いますよ」

 マシューの言葉に、が肩をすくめる。「わたしには、戦う才能はなかったのよね」と、が寂しげに笑った。身体を動かすことを好むヘクトルには、どうしてもついていくことができなかった。それでも共に居たくて、しょっちゅうオスティアを訪れていた。

「一緒に居ることができて、羨ましい。わたしはただ、無事を祈ることしかできなかったもの。こんなに、」

 すきなのに、と小さな声が落ちる。
 ぴくりとヘクトルの指先が跳ねたが、がそれに気づくことはなかった。

様が心配するようなこと、ないと思いますけどね。じゃあ、おれは宿泊の旨を伝えてきますね」
「ええ、お願い」
「あ、それと若様! いつまで狸寝入りしてるんです?」
「えっ?」

 が振り向いた時には、マシューの姿は扉の向こうに消えていた。

「マシュー!」

 ヘクトルは思わず、飛び起きて怒号を飛ばしていた。びくっ、との肩が跳ねる。「いつから」と、が戸惑うようにヘクトルを振り返った。

「……」

 正直に言っていいものか、ヘクトルは迷う。視線を彷徨わせてから、の顔をひたと捉える。不安そうな瞳がじっとヘクトルを見上げている。

「おまえが、立ち上がったあたりからだよ」
「……じゃあ、聞かれちゃったのね」

 が困ったように、眉尻を下げて小さく笑った。その頬が薄らと赤くなっているが、ヘクトルには己のほうがよほど赤らんでいる自覚があった。「くそっ」とつきたくもない悪態をついて、ヘクトルはの身体を衝動のままに抱きしめる。
 自分の体格が大きすぎるのか、の身は腕にすっぽりと収まった。力の加減を間違えれば、壊してしまいそうだった。ヘクトルはそうっと、だがしっかりと腕をその身体に巻きつけて、互いの隙間をなくした。

「ヘクトル、」
「俺のほうが、ぜってぇおまえのことが好きだ」
「なぁに、それ」

 ふふ、と笑う吐息が胸元に触れる。
 身じろいだが顔を上げた。とっくに引っ込んでいたはずの涙が、再びその瞳を潤ませていて、ヘクトルはどきりとする。

「わたしね、ずっとあなたの家族になりたかった。喪が明けたら」

 その先は自分が言いたくて、ヘクトルは唇を重ねてから言葉を奪った。思いのほか、深くなってしまった口づけにが呼吸を乱し、ヘクトルに身を委ねる。
 ごくり、とヘクトルは生唾を飲み込み、言葉を詰まらせる。
 の目尻から落ちた涙を指先で拭って、そのまま頬に手を添えたまま、ヘクトルは顔を覗き込む。

「……結婚、しようぜ」

 遅すぎる、とウーゼルの呆れたような笑い声が聞こえた気がした。

喪失を抱くのと同じ手で

(やわらかくて、ぬくい身体を抱きしめる)