昔から身体が弱くて、熱を出して寝込んでは、母を心配させたものだった。同じ年頃の貴族のなかにも、に負けず劣らず虚弱な公子がいた。お互い、屋内で過ごすことが多くて、よく手紙のやりとりで喜怒哀楽を共有した。
 だからは、寝台のなかでもちっとも寂しくはなかった。
 目を閉じれば、彼がいつも傍にいてくれるような気がして、身体が弱いのも悪くないとさえ思ったことだってあった。

 成長とともに身体が丈夫になった彼は、今ではあのオスティア侯弟と手合わせまでする仲だという。それがには、嬉しくて、すこしだけ寂しい。
 は身体は病弱なまま、気ばかりが強くなってしまった。


 額に心地よさを覚えて、は薄らと目を開けた。
 燃えるような赤髪と、それとは対照的な空色の瞳が視界に飛び込んでくる。あまりに鮮やかに色彩に、は思わず眉をひそめた。

「エリウッド」

 名を呼ぶ声は掠れていた。身体を起こそうとしたが、思った以上に怠くてもたついてしまう。「まだ熱が高い。横になっていたほうがいいよ」と、エリウッドの手がやさしくの肩を押さえた。

「ごめん。起こしてしまったね」
「……構わないわ」

 はエリウッドの言葉に甘えて、寝台に身体を預ける。今さら、寝たまま顔を合わせることが失礼なんて思うほど、浅い付き合いではない。
 すぐに瞼が落ちてしまいそうな倦怠感だった。
 つい、ムッとした声が出てしまったが、致し方あるまい。エリウッドとヘクトルの二ヶ月に一度の手合わせを、も見に行く予定だったのだ。前日になって、急に体調を崩してあれよあれよとこの有様だ。

「ヘクトルも残念がっていたよ」

 エリウッドが眉尻を下げて、柔和に微笑む。
 は小さくため息をついて「一番残念に思っているのは、わたし」と、不機嫌に告げた。エリウッドが苦笑を漏らす。

「目が覚めたなら、人を呼ぼうか。喉は乾いていないかい」
「いいえ」

 はゆるく首を横に振ると、エリウッドの手を掴んだ。口ごもるの声を拾いきれずに、エリウッドが耳を寄せてくる。

「何だい?」
「……そばに、いて」
「え?」

 エリウッドが目を丸くする。
 はふいと顔を背けると、目を閉じた。小さく笑ったエリウッドが、の手を包み込むように握った。その手のひらは、が思っていたよりもずっと大きくて、指先がかさついていた。








 最近は寝込むこともないと調子に乗って、家族の反対を押し切って遠乗りなどした罰が当たったのかも知れない。キアランに着いた途端に熱が出て、寝台から出られなくなってしまった。そうこうするうちに、ラウス候の急襲によって、キアラン城はあっという間に陥落した。
 せっかく、友人となったリンディスと楽しく過ごせると思っていたのに、こんなふうになるだなんて青天の霹靂である。

「リンディス……」
 
 キアランの公女たるリンディスは辛くも脱出したようだが、は動くこともままならず、逃げることは叶わなかった。
 同じく、年を召して身体の弱いキアラン侯も城内に残されたままだ。
 ラウス兵に引きずられて、はキアラン侯とともにラウス侯によって囚われの身となった。

「巻き込んでしまってすまない」

 キアラン侯の言葉に、は力なく首を横に振った。

「わたしのほうこそ、力になれなくてごめんなさい」

 病弱でなければ、だってリンディスのように剣を振り回していただろう。その程度にはじゃじゃ馬なのだ。殴り合いの喧嘩ならいざ知らず、口喧嘩ならば負ける気はしない。
 ラウス侯の息子であるエリックを、言い負かして泣かしたこともある。

「身体は辛くないか?」
「わたしは大丈夫です。ハウゼン様こそ……」
「おい、何をこそこそ話しておる!」

 ラウス侯に怒鳴りつけられても、は萎縮することなく、睨み返した。

「わたしたちが言葉を交わしたとして、あなた方に何の不都合があるとおっしゃるの? 見ての通り、抵抗などできない無力なわたしたちよ」
、噛みつくのはよしなさい」

 もっと言ってやりたいところだったが、キアラン侯に嗜められ、は口を噤んだ。
 忌々しげに顔を歪めたラウス侯のもとへ、兵士が駆け寄り耳打ちする。途端に、ラウス侯の顔色が変わり大きく舌を打った。

「くっ……フェレの小倅め………」

 ラウス侯の呟きに、とキアラン侯は顔を見合わせる。
 エリウッドが来てくれた。そう思うだけで、心強い。は励ますように、キアラン侯の手を握り締めた。



 それから間もなく城を守っていたバウカー将軍が敗れたと伝令があった。「ば、馬鹿な……バウカーまでもが」と、ラウス侯が項垂れる。

「ダーレン殿。もはやここまでじゃ、諦められよ」

 ラウス侯を諭すように、キアラン侯が言葉をかける。
 ラウス侯ダーレンは強欲で、領民を奴隷のように扱うような男だ。このような目に遭わされておきながらも、ラウス侯を責め立てないキアラン侯の情け深さには感銘を覚えるほどだ。
 ならば、閉口するまで糾弾するだろう。

「わしの……負け……か」

 とはいえ、今にも膝をついてしまいそうなラウス侯には、さすがに同情心も湧いてくる。
 熱が上がって意識がぼんやりとしてきたこともあり、は黙って二人のやりとりを見つめる。けれど、まだ緊張状態にあるは、キアラン侯に忍び寄る怪しい人影を見逃しはしなかった。

「ハウゼン様っ……」

 気怠い身体は思うようには動いてくれなかった。よろめいて、高齢であるキアラン侯をあろうことか勢いよく突き飛ばしてしまう。凶刃がキアラン侯に届くことはなかったが、の脇腹を掠めた。
 じわりと血の滲む脇腹を押さえ、は男を睨みつけた。金の瞳が見つめ返してくる。

「邪魔立てしないでください」

 を払い除けた男は、血に濡れた刃をキアラン侯に突き立てた。の伸ばした手が、届くことはなかった。


 いつかと同じ手のひらの感触が、の意識を浮上させた。いつの間にか、熱と痛みで気を失っていたらしい。脇腹の手当ては施されていて、身体は寝台に寝かされているようだった。

「……ハウゼンさま、は………」

 の手がぎゅうと握られる。それは痛いくらいだった。

「何とか、一命を取り止めたよ」

 答えるエリウッドの声は、よりもよほど掠れていた。は重い瞼を持ち上げて、その顔を見やる。苦しげに歪んだ顔は、今にも泣き出しそうだった。

「……どうして、君がいるんだ。どうして、僕は君のそばにいてやれないんだ……!」

 握り締めた手に、エリウッドが額を寄せた。柔らかい髪の毛が触れる。
 エリウッドの父エルバートが行方知らずであることは、も聞き及んでいる。そして、エリウッド自らが捜索に乗り出したことも、手紙で知らせを受けていた。

「エリウッド、わたしは大丈夫よ」
「大丈夫なわけがないだろう! 君は、下手したら殺されていたんだ!」

 こんなふうに声を荒げるエリウッドの姿を見るのは珍しい。は口を噤んだ。

「……すまない」

 はっと息を呑んで、エリウッドが小さく呟くように告げた。
 俯いたエリウッドの表情は見えない。

「身体がすこし丈夫になったって、君を守れないなら何の意味もない」

 エリウッドの姿は、懺悔のようにも、祈るようにも見えた。

「エリウッド、あなたの手はわたしのためだけにあるわけではないわ。わたしだけじゃなくて、たくさんの人を守るの。そうでしょう?」
「……」
「でもね、こうして手を握る人は、わたしだけにして頂戴」
「えっ?」

 エリウッドが顔を上げて、瞠目した瞳をに向ける。じっと見つめられた途端に恥ずかしくなって、は視線を逸らした。

「……僕でいいのかい?」
「馬鹿。エリウッドがいいのよ、決まっているでしょ」
「はは……君には、敵わないな」

 の顔に影が落ちる。近づいてくる気配に、はそっと目を閉じた。



「君の家には早馬を飛ばしたから、すぐに迎えがくるはずだ。大人しく、家にいられるね?」
「あのね、わたしは子どもじゃないのよ」
「……調子がいいからと言って、馬に乗るなんてもってのほかだ」
「わかってるってば! もう懲りました」

 心配なのはわかるが、あまりにしつこい。は肩をすくめた。

「エリウッドこそ、無事に帰ってこなかったら承知しないわよ」

 唇を尖らせながら、エリウッドを睨む。小さく苦笑を零したエリウッドが、ふいに跪いた。は思わずぎょっとしてしまう。
 そうしての手を取ったかと思えば、エリウッドの唇が甲に触れた。
 かあっとの体温が急上昇する。発熱とは全く違う。

「え、エリウ」
「約束する。必ず、君の元へ帰ってくるよ」
「わ、わかったから! ヘクトルたちが見てるからもうやめてっ」

 恥ずかしさに耐えきれず、は手を振り払う。
 にやにやと見守るヘクトルとリンディスから逃れるように、は慌ててシーツの中に潜り込んだ。「じゃあ、僕たちは行くよ」と、やさしくシーツ越しに頭を撫でながら降る声は、すこしも慌てていないし、照れる様子もないのだから憎らしい。

「行ってらっしゃい」

 なおもシーツに潜ったまま小さく告げれば、穏やかな笑い声が帰ってくる。手の甲には、まだエリウッドの唇の感触が残っているような気がした。

優しい劇薬

(ああ、こんなにも動悸が激しい!)